2023年05月30日
“わたしの霊をすべての人に注ぐ”
*日時:2023年5月28日、主日禮拜(聖霊降臨節)
*場所:福岡アガペ長老教会
*說敎:張サムエル 牧師
*本文:ヨハネ14章1-16、26-27節/使徒の働き2章16-21節
† 今日は教会が聖霊(せいれい)降臨(こうりん)節(せつ)(ペンテコステ)として守っている日です。聖霊様が私たちの中に来られて私たちを悟らせてくださり、育(そだ)ててくださり、また慰(なぐさ)めてくださり、私たちの足りない部分(ぶぶん)を満たしてくださり、教会にリバイバルをもたらします。
私たちは三位(さんみ)一体(いったい)(Three Persons、Trinity)の神様を告白し信じます。私たちが信じるのはモナルキア主義、つまり単一神論(Monarchianism)ではありません。三位一体はとても特別です。三位一体の神様は父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様です。祝祷(しゅくとう)(Benediction)ではイエス・キリストが先に出ます(2コリント13:13)。これはとても特別なことです。私たちがこれを深く悟らなければなりません。世に多くの神々がいるではありませんか?みな自分の神々がいます。しかし、私たちが信じる神様はどんな神様ですか?イエス・キリストによって啓示された神様です。これが真の神です。それで祝祷にはイエス・キリストが先に出ます。神様を私たちがどうやって知ることが出来ますか?私たちが神様を知らないではありませんか?私たちがどうすれば神様を知ることが出来ますか?神様と人間の間にはあまりにも大きな違いがあります。神様は永遠なる方で、人間は時間の中に生きる存在です。この永遠と時間の質的な違いはあまりにも厳然(げんぜん)たるものです。有限者が無限者を知ることは出来ません。人間が神様を知ることは出来ません。私たちはその方に至(いた)ることが出来ません。その方を把握(はあく)することも捉えることも出来ません。人間という存在には限界があります。だから人間が唯一、神様を知ることの出来る道とは何ですか?それがまさにイエス・キリストです。
三位一体の神様というのは何でしょうか?私たちが神様をどのように知ることが出来ますか?実は神様を知るという時、私たちが覚えるべき大前提(だいぜんてい)があります。神様を知るというのは高慢(こうまん)だということです。モーセが神様に会いました。「私があなたを誰だと民に言いましょうか?」と訊きます。名前が本当に重要です。「私があなたを誰だと言えばいいのでしょうか?」という質問に対して神様は「わたしはわたしだ」と答えられました。そうです。神様はいつも「わたしはわたし」というお方です。人間が神様をああだ、こうだと規定(きてい)すること、対象化(たいしょうか)すること、可視化(かしか)することは全て偶像(ぐうぞう)を作ることです。神様をそのように定型化(ていけいか)することは出来ません。そのようなものを一切作ってはならないと仰(おっしゃ)いました。なぜですか?そのようにするのは神様を規定(きてい)し、神様をそこに閉(と)じ込めることだからです。
それではどうすれば神様を知ることが出来ますか?知ることが出来る道をくださいました。それが何ですか?「息子(むすこ)を遣(つか)わす。メシア(Messiah)を遣わす。キリスト(Christ、Christos)を遣わす」と。それで神様が誰なのかを知らせるということです。これがまさに啓示です。私が彼に行く道がなければ、彼が来るべきではありませんか?ダビデの有名な言葉が思い出されます。息子が死んだ時にダビデが言う言葉です。「私が彼のところへ行くことはあっても、彼が私のところに戻って来ることはない」(2サムエル12:23)と。死んだ息子が私の元に帰って来る道はなく、残っているのはただ自分が死んで息子のところへ行く道だけだろう。ダビデはそう言いながら全てをきっぱりと整理します。これとは反対に、私たちが神様へ行く道がないので、神様が私たちに来られるしかないのです。だから神様が息子を私たちに遣(つか)わされました。数多くの人々が神様を知ることを願っても知ることが出来ませんでした。人間は有限です。神様を知る術がありません。だからもどかしいです。理性と啓示の差(さ)が明確にあります。理性は論理的に推理(すいり)します。私が私を知っています。そして人間という存在自体が、神様がいらっしゃることを知っています。神様に向かっているし、神様を呼んでいます。全ての人が罪人ですが、全ての人がみな神様を探しています。これが正しい言葉です。明確に設計者、創造者(Creator)、造られた方(Maker)がいるのに、彼が誰なのかを知りません。だからもどかしくてあまりにも苦しいです。しかし、答えがもたらされました。神様の御子がこの地に来られました。イエス・キリストの恵みです(2コリント13:13)。ギリシャの人々は宇宙的な真理(Universal Logos)があると信じました。しかし、宇宙的真理ではなく、真理そのもの(The Logos)が来られました。「真理とは何か?」とピラトが尋(たず)ねました(ヨハネ18:38/ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」)。私たちが信じる真理はまさにイエス・キリストです。
神様の愛とは何ですか?愛とは何ですか?命とは何ですか?この見えないものに関して<ヨハネの手紙第1の1章1節>は、私が見たもの、手で触(さわ)ったものだと言っています(1ヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。)。真理がどこにありますか?ここにあります。愛がどこにありますか?ここにあります。これが愛だと言います。これが愛です。主が罪多き世界に私たちを探して来られ、ご自分を低(ひく)くし、しもべの姿で現(あら)われました。そして私たちのために生きて、私たちのために全てを捧げ、命までも全て無にして、私たちの罪を担(にな)って死なれました。これが啓示です。そして告白です。「ああ、これが神様の愛なのだ」と。神様の啓示であるキリストです。キリストを通して神様を知るようになったのです。
それで<コリント人への手紙第2の13章13節>、祝祷(しゅくとう)(Benediction)の先頭(せんとう)には主イエス・キリストの恵みが出ます。イエスを通して、そしてその大きな恵みを通して私たちが神様を知るようになりました。だから「我が主イエス・キリストの恵み」と言います。普通、常識的(じょうしきてき)に考えるなら神様の愛が先に出るべきではありませんか?なのにどうしてイエス・キリストが先に出ますか?第一に神様と息子は一体であり、次にイエス・キリストの恵みを通して私たちが神様の愛を知るようになるからです。神様の啓示であるキリストです。その次に聖霊の交わりが出て来ます。三位一体です。祝祷は本当に重要ですが、私たちがいつも三位一体の神様(Trinity)の御名で祝祷します。主がこの地に来られて神様のことを全て知らせて、その次にどうなりましたか?天に昇(のぼ)られました。つまり天に帰られました。それではその次はどういう時代ですか?ある神学者が三位一体を解釈(かいしゃく)しながら、父の時代、子の時代、次は聖霊の時代だと言いました。<ヨハネ14章>で主が天に帰られる前にこのように仰いました。
「あなたがたは心を騒(さわ)がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)
イエス様が弟子たちに、心を騒(さわ)がせてはならないと仰(おっしゃ)いました。今、誰が心を騒がせるべきでしょうか?<ヨハネの福音書14章>は告別(こくべつ)説教です。イエス様は十字架を前にしています。それなら誰が心を騒がせるでしょうか?十字架につけられる方の心が騒ぐのが当然ではありませんか?しかし、あなた方は心を騒がしてはなりませんと仰いました。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、 わたしは場所を備(そな)えに行くのです。」(ヨハネ14:2)
天の御国には父の家があると仰いました。この御言葉を聞(き)いたら平安になりますか?不安ですか?死んだ後に行く父の家があるということです。世には大きく見て3つの世界観があります。1つ目は、人間が死ねば後には何もない。ただ塵(ちり)に戻るだけです。無神論者が持っている世界観があります。彼らにとって重要なことは名前を残すことです。死んだ後には何もないからこの地に名前を残すことが最も重要となります。2つ目は、人間が死んだ後に再び生まれ変わる(輪廻(りんね)転生(てんしょう))というものです。今回の生をどのように生きたかによって次の生で犬や豚や牛(うし)に生まれ変わると信じます。インドに行けばこのような世界観を持っている人がたくさんいます。このような世界観を持っているから、次の生で卑(いや)しい動物に生まれたくないと、この生を善良(ぜんりょう)に生きようとする長所(ちょうしょ)があります。3つ目は、クリスチャンが持っている世界観です。人は死んで天国へ行きます。<ヨハネの福音書14章>でイエス様は、わたしの父の家があると仰(おっしゃ)っています。人が死んで犬や豚になるという話を聞いて気楽(きらく)になりますか?人は死んで全て塵(ちり)になるという言葉を聞いて平安ですか?父の家があるというのが最も心が平安になるのではないでしょうか?それなのにどうしてこの世がイエスを信じないのかよく分かりません。これは私たちの責任(せきにん)です。正しく伝えていない私たちの責任です。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備(そな)えたら、まㄴた来て、あなたがたをわたしのもとに迎(むか)えます。わたしのいる所(ところ)に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)
人間はこのように皆が行きます。どこへ行きますか?天国へ行きます。天にある「わたしの父の家」へ行きます。この御言葉は疲れた人間の魂に平安を与えてくれます。この御言葉は苦難(くなん)の期間の中で十字架の死を前にしながらもそれを超越(ちょうえつ)しておられる主の御言葉ですから悲しい話ですけれども、しかし、この御言葉が私たちに慰め(なぐさめ)を与えます。悲劇(ひげき)に置かれる悲惨(ひさん)な明日があるにもかかわらず、主が私たちを慰められた御言葉です。あなた方がわたしの父の家に来る。そうしたらわたしがあなた方を迎え入れると。
「12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行(おこな)うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒(いまし)めを守るはずです。16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14:12-16)
「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣(つか)わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:25-26)
聖霊様は私たちに対するより大きな慰(なぐさ)めです。あなた方を独(ひと)り置き去(さ)りにすることはないと主は仰(おっしゃ)いました。「わたしは行く。しかし、神様がまた違う時代を開(ひら)かれる」と仰いました。数百年に一人、特別に神様が決めた人にだけ注(そそ)がれるのが聖霊でした。そのような特別な人だけが神様の御声を聞いて、神様が見せてくださるものを見て、それを民に預言し、民を教えて来ましたが、しかし、主は「わたしが行ったら御霊(みたま)を遣(つか)わしてくださる」と仰いました。「わたしが行けば」というのが重要な言葉です。聖霊の世界はどのように開かれた世界でしょうか?それは主が十字架の苦難(くなん)を受けて、私たちの罪を担(にな)って死なれて、復活され、昇天(しょうてん)されて「その後に」開かれた世界です。世にどれほど多くの霊がありますか?どれほど多くの神々がいますか?しかし、私たちはそのような霊ではなく、聖霊を受けて聖霊を知るのです。これが教会に開かれた祝福です。新しい時代です。
それで<ヨハネの福音書14章>は聖霊(せいれい)降臨(こうりん)節(せつ)に必ず読まなければならない書物(しょもつ)です。私たちは<使徒の働き2章>と<共にヨハネ14章>をこの日に必ず読みます。イエス様が行(い)かれることで何が来られますか?助け主、聖霊が来られます。この聖霊が個人個人みなに来られます。老人にも若者にも子供にも皆に来られます。主の御名を呼ぶ者はみな救われると仰いました。全ての人が聖霊をプレゼントとして受けます。差別(さべつ)なく全ての人に注(そそ)がれる美しい世界です。
キリスト教の人間観はどうなのかと言うと、一人一人みなが特別な存在です。神様が特に彼に印(いん)を押して、彼に祝福を与えてくださいます。救いは集団的(しゅうだんてき)なものでもなく、客観的(きゃくかんてき)なものでもありません。プロテスタントの精神(Protestantism)は人間はみな一人一人が神様と同じ距離(きょり)だということです。そこには差別がありません。皆さん各人、一人一人を神様が世話してくださり、その霊を与えてくださいます。このような素敵(すてき)な教会に皆さんが通(かよ)っています。マルコの屋根(やね)裏(うら)部屋(へや)で120人が聖霊を受けました。皆が聖霊の印を押(お)されて、皆が夢を見て、預言をし、幻(まぼろし)を見ました。聖霊の夢がもたらされると死んだ者がよみがえります。干(ひ)からびた骨(ほね)が立ち上がり、大きな軍隊(ぐんたい)となります。
しかし、皆が夢を見て預言をすると言いました。聖書は神様の霊によって記録された書物(しょもつ)です。だからこれを読むと私たちが夢を見ます。未来に対する新しい夢を見るようになります。ヨセフのように夢を持つ人となります。ヨセフのように未来を預言する人となります。皆さん一人一人がそのようになる時が来ます。既(すで)に来ました。皆さん一人一人を神様がみな導いてくださいます。神様が今日、私を通して何をしようとされますか?皆さん一人一人はみな神様が造られました。この美しい世界に遣(つか)わされた人生です。そして全ての行く道を見せてくださり、どのように生きるべきかを全て見せてくださいます。悲しい世の中で聖書を読むと希望だけが見えます。教会は希望です。福音は希望を語ります。主が私たちの罪を脱(ぬ)がせ、私たちを救われ、父の家(天国)を保証(ほしょう)し、そして聖霊の交わりを祝福します。
皆さん一人一人を誰が育ててくださるのか知っていますか?助け主、聖霊です。英語の聖書では慰め主(Comforter)とも言い、弁護者(べんごしゃ)(Advocate)とも翻訳(ほんやく)されています。弁護士(Lawyer)がいつも付(つ)いて来て私たちを弁護してくれます。慰め主(Comforter)はラテン語でFortis(力)です。これがComforterです。私たちに慰めと力を与えてくださいます。聖霊様が人間の魂、一人一人みなと共にいらっしゃいます。この聖霊(せいれい)降臨(こうりん)節(せつ)。以前は数百年(すうひゃくねん)ぶりに一人が選ばれて特別な預言者だけが聖霊を受けました。今は主の御名を呼ぶ者みなに聖霊が来られて、一人一人をみな育(そだ)ててくださいます。聖霊様が、主が教えてくださった全ての真理を教えます。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒(さわ)がしてはなりません。恐(おそ)れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
聖霊様が私たち一人一人をみな教えてくださり、一人一人の人間、魂をみな導いてくださり、一人一人をみな悟らせてくださり、全て主の御名を呼ぶ者には救いを得させてくださり、行く道を導いてくださり、知恵を与えてくださり、方向(ほうこう)を示(しめ)されます。そしてその愛を思い起こし、真理を悟るようにされます。そして聖霊が人間と人間が互いに交わるようにさせてくださいます。聖霊が私たちの中に入って来られたら、<エペソ人への手紙2章>の御言葉のように、隔(へだ)ての壁(かべ)を打(ぶ)ち壊(こわ)し、凍(こお)った心が溶(と)かされます。ガラテヤの教会に対してパウロは人を器(うつわ)にたとえて話しました。ギリシャの人間観では、人間を何かを入れる器(うつわ)だと見ました。その中に何かが入っているということです。貪(むさぼ)りや欲、欲望、憎悪(ぞうお)のようなものが入っていたらDarkness(暗闇(くらやみ))です。しかし、光が来ると暗闇が光に勝つことは出来ません。聖霊様は私たちの中に入って来られて皆に主の愛を悟らせてくださいます。そして主が教えられた全ての真理を思い起こさせてくださいます。主の愛と真理を悟らせ、思い起こさせてくださいます。また、聖霊は未来を語(かた)られます。あなた方に明(あか)るい未来があると希望を語ってくださいます。神様の霊である聖霊がこのように一人一人の人生を訪(たず)ねて来(こ)られます。このような三位(さんみ)一体(いったい)の神様を私たちが信じています。
「17 神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子(むすこ)や娘(むすめ)は預言し、青年(せいねん)は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしため(女)にも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示(しめ)し、下は地にしるしを示す。それは、血と火(ひ)と立ち上る煙(けむり)である。20 主の大いなる輝(かがや)かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月(つき)は血に変わる。21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(使徒の働き2:17-21)
<使徒の働き2章>で聖霊が降(ふ)り始めました。これは<ヨエル書2章28節>の成就(じょうじゅ)です(ヨエル書2:28/その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りや夢を見、若い男(おとこ)は幻を見る。)。これが聖霊の時代の私たちの人生です。これが聖霊の力によって生きる教会です。それでこの聖霊(せいれい)降臨(こうりん)節(せつ)は元々収穫(しゅうかく)と関係があります。教会はこの聖霊降臨節をき(切)っか(掛)けに、これを過ぎると大きなリバイバルが訪(おとず)れます。皆さんの人生も変わります。主の御名を呼ぶ者たちの人生が聖霊の力の中で変わり、干(ひ)からびた骨(ほね)が立ち上がり、肉と血が通(かよ)うリバイバルが訪(おとず)れます。そのように大きく繁栄(はんえい)する皆さんとなることを願います。Ω