礼拝説教

礼拝について


2023年05月09日

<ヨハネの福音書4:24> 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

† なぜ、日曜日が主日になったのか? 日曜日の朝、十字架で苦(くる)しまれ死なれた主イエスが復活されたことを知っています。それ故(ゆえ)に私たちクリスチャンは、復活の主を礼拝するために日曜日の朝ともに集まり礼拝します。つまり、私たちは日曜日の朝、イエスの復活を記念して礼拝します。そして、礼拝は、私たちの都合(つごう)で出席(しゅっせき)できるだけ出席すればよいという程度のものと思ってはなりません。まず、神様との約束である礼拝を優先(ゆうせん)します。その上で、自分の都合(つごう)や予定を考え、なんとかして礼拝を捧げようと詰(つ)めます。兄弟姉妹方は、決して(결코/절대로)自分の趣味(しゅみ)や楽(たの)しみを優先し、時間ができたならば礼拝に出席するという安易(あんい)なきもちではないです。この主日(主の日=キリストの再臨の日とは区別(くべつ))についての理解においては、旧約(きゅうやく)聖書の安息(あんそく)日(び)と深いかかわり(관계)があります。安息日についての規定は、旧約聖書のモーセの十戒(じっかい)にあります。この十戒(じっかい)は、出(しゅつ)エジプトした後に、イスラエルがシナイ山でモーセを通して与(あた)えられたものです。これは、神さまに導(みちび)かれて住むようになった地が、異邦(いほう)の神々(かみがみ)のはびこる地だったからです。この十戒は、この異教(いきょう)の地で民(たみ)が生きていく指針(ししん)として与えられた戒(いまし)めです。これを今日的(こんにちてき)に理解するならば、罪の奴隷(どれい)から解放(かいほう)されたキリスト物が、異教会(いきょうかい)のはびこるこの世を歩(あゆ)むための大切な指針ということです。パウロがいうように、律法は、私たちの罪を示(しめ)し、私たちをキリストにより頼(たの)ませ、キリストに導(みちび)くためのものですが、礼拝が、その一種(いっしゅ)のものだと思っていてください。旧約の民は、安息日の丸(まる)一日(いちにち)(夕暮(ゆうぐ)れから翌日(よくじつ)の夕暮れまで)を時間的にも、空間的(くうかんてき)にも神を礼拝する以外のことはしないと定(さだ)めて守(まも)りました。

ところが(그런데/그러나)、旧約時代と新約時代における礼拝の意味は、イエスキリストによって大きく変わりました。

私たちは、ユダヤ人とは、この安息(あんそく)日(び)がイエスキリストによって成就(じょうじゅ)されたことを信じています。そして、安息日は、救いの要件(ようけん)ではありませんから、安息日、つまり主日を守らなかったから救いを取(と)り去(さ)られるわけではありません。新約の時代に変わったことによって、ユダヤ人が守るような宗教(しゅうきょう)行事(ぎょうじ)としての規則(きそく)は廃(はい)止(し)されたし、祭儀(さいぎ)律法(りっぽう)とかも廃止(はいし)されました。しかし、安息日規定(きてい)のすべてが廃止(はいし)されることはないです。

イエス様は、<マタイ5章17-18節>に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄(はいき)するためだと思ってはなりません。廃棄(はいき)するためにではなく、成就(じょうじゅ)するために来たのです。18 まことに、あなたがたに告(つ)げます。天地が滅(ほろ)びうせないかぎり、律法の中の一点一画(かく)でも決(けっ)してすたれることはありません。全部が成就(じょうじゅ)されます。」と、話(はな)されました。この部分をよくつかんでほしいですが、ユダヤ教とキリスト教とは、もちろん、いまは違う部分がありますが、キリスト教は、旧約と新約を併(あわ)せ持(も)って真理と信じていますし、ユダヤ教がもつ慣習(かんしゅう)や彼らの歴史をわたしたちキリスト教とつなぎあわせて、神様の歴史だと理解しています。だから、神様についての理解においても、ユダヤ人のようにも理解し、また、イエス・キリストを通して紹介された神様のことも信じているわけです。どっちかにかたよることなく、両面(りょうめん)を従事(じゅうじ)し、正しく理解しておくことが大事です。
なぜなら、イエスキリストの十字架と復活に中に、すべての儀式(ぎしき)や律法は成就(じょうじゅ)されたことを信じていますから、礼拝を通してイエスキリストによって開(ひら)かれた救いと新しい生命(せいめい)の意味を噛(か)み締(じ)め(음미하다)、全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)を注(そそ)いで御父(おちち)、御子(みこ)、御霊(ごれい)であられる三位(さんみ)一体(いったい)の神様に出会うこと、その方に触(ふ)れること、そして、恵みと慰(なぐさ)めと、戒(いまし)めを受け取り、悟ることで十分です。

「なぜ、日曜日に礼拝を捧げるのか」を簡単にまとめると、イエス・キリストの復活を記念(きねん)すべく、その方が復活なさった日曜日の朝に礼拝を捧げるのです。これまでユダヤ人が律法を通して目指(めざ)していた救い(ユダヤ人は、罪から解放されることで、そのためにユダヤ人は、今日的(こんにちてき)にいえば、憲法(けんぽう)や民法(みんぽう)、 刑法(けいほう)のような六法(ろっぽう)全書(ぜんしょ)のようにあらゆる場面(ばめん)を予想(よそう)して法律の規定(きてい)を設(もう)けていました。それを律法といいますが、律法のすべての規定を完全に守ることによって救いを得(え)ることができると信じていました。)が、キリストの中で完全に全(まっと)うされ、すべてが完成されましいた。それによって、罪から完全に逃(のが)れ、解放され、新しい生命に授(さず)かったことにおける感謝と賛美を捧げること、これから進(すす)んで、イエス・キリストに従(したが)って、その方の弟子として生きることを決心し、世の中へと派遣(はけん)されることが、礼拝です。

ギリシャ語で、時を表(あらわ)す二つの単語があるのですが、カイロスは、「神の時」「重大(じゅうだい)な転機(てんき)」「特別な時間」という意味があり、クロノスは、「時の流(なが)れ」「日常(にちじょう)の時間」という意味があります。ここでいう、礼拝者として正しい心得(こころえ)は、「カイロス」的な姿勢ですね。つまり、月曜日から土曜日まで生きてきて、そのあと、日曜日だから、教会に行くみたいな、時の流(なが)れに、ただ流されるような姿勢(しせい)ではなく、月曜日から土曜日までの間、本当に苦しかった、本当に疲れた、まだまだやらないといけないことが山(やま)積(づ)みだから、もう、教会に行く余裕(よゆう)もない、としても、日曜日は、日常的(にちじょうてき)な考えや日常的な姿勢をすべて切り捨てて、新しい気持ち、聖なる気持ちで、礼拝をむかえるべきだということです。なぜなら、礼拝は、神様に出会える時間であり、神様の顕現(けんげん)(현현)なさる時間だからです。神様の働きかけがあり、神様との関係を回復することで、世の中へと派遣(はけん)されることです。

だから、とてもとても重大な転機(てんき)ですし、欠(か)かせない時間です。あ、もう、人間関係がこじれているとか、昨日、仕事がうまくいかないとか、で、もやもやした気持ちと感情をそのまま、礼拝の時間にもってきてしまったら、神様は、どうしようもないです。むしろ、礼拝を通して疲れてしまうわけです。だから、気持ちを切り替(か)え、心の姿勢を切り替え、日常的なことがらは、礼拝が始まる時間から終わる時間まで、すべて切り捨て、スイッチを切っておくべきですね。このような姿勢がとても大事です。

マンネリズムということがありますが、信仰生活をする人たちの中においても、マンネリズムが本当に深刻(しんこく)です。いつもの時間に、いつもの場所で、いつものどおりの礼拝を捧げ、いつもとおなじようなひとたちに会い、交わりをする。なんのときめきもなく、いきいきとした生命力(せいめいりょく)もない信仰生活は、本人(ほんにん)にとっても、本当に辛い(つらい)です。だから、平日(へいじつ)に何があっても、主日の礼拝にだけは、区別した心をもって礼拝を捧げるべきです。

信仰生活において年数がたてばたつほど、人の反応(はんのう)や感覚が古(ふる)くなり、鈍(にぶ)ってしまいます。「イエス様は、子どものような心、子どものような姿勢がなければ、天国に入ることができない」と話しましたよね。子どもは、大人にとってはつまらないことなのに、何でも興味を持ちますし、小さなことでも、真剣(しんけん)に取り組(く)みます。

信仰生活の究極(きゅうきょく)な目的は、真の礼拝者になることです。神様の愛、イエスキリストの恵みに深く根(ね)をおろし、どんなことがあっても、信仰をもってイエスキリストの中にとどまることがとても大事です。イエス様は、<マタイ16章>に天国に入る鍵が、教会にあると教えて下さいました。私たちが、まことなる礼拝者の姿を持って、この世においても、どんな試練やどんな誘惑(ゆうわく)にあっても倒(たお)れることがないことを願います。

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