2024年03月17日
*本文: ヨハネの福音書 17章1-26節
† <ヨハネの福音書13章から16章>にかけてイエス様の告別説教が記録されており、<ヨハネ17章>には告別の祈りが記録されています。告別の祈りには二つがあります。一つはゲッセマネの祈りであり、もう一つは十字架上での祈りです。しかし、<ヨハネ17章>の告別の祈りは、弟子たちと共に捧げた最後の祈りです。この祈りは、主が現代の教会のためにお捧げになった祈りであり、ひいては世界のためにお捧げになった祈りです。
<ヨハネの福音書17章>の祈りについては、これまで何度も見てきました。皆さんが子供たちと一緒に覚えるならなお良いでしょう。主が最後に何を祈られたのか、その祈りの流れを私たちがよく知らなければなりません。この祈りは4つの段落から構成されています。
<ヨハネの福音書17章1-5節>までは「御子の従順を通して現される神様の栄光」についてです。 この部分を読むと、イエス様がどのように生きられたのか、神様の御子イエス様はどのようなお方なのか、イエス様がどのような心をお持ちになり、どのように生きられたのかが分かります。この祈りを読むなら、私たちの考え、そして私たちの人生がイエス様とどれほどかけ離れたものであるかを知るようになります。しかし、私たちはこの部分を何度も読みながら、私たちが主のお考えとその人生に似ていこうとしなければなりません。「そうか、主はあのようにお考えになったのだ。あのような生き方をされたのだ。」私たちはまずそのことを悟り、それからそれに倣おうとしていく必要があります。続く<ヨハネの福音書17章6-19節>は「弟子たちにくださったお言葉」であり、その次の<17章20-24節>は「世のための祈り」です。私たちの宣教対象は全世界です。<ヨハネの福音書3章16節>に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。ここで「世」に言及されています。信じる者たちの宣教の対象はこの世界です。神様の栄光がこの世界に満たさなければなりません。続く<17章25-26節>は祈りの締めくくりです。
[ヨハネ 17:1] イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
「イエスはこれらのことを話してから」 これらのこととは何でしょうか。ヨハネの福音書13章-16章までを指しています。その言葉は次のように区分して見ることができます。第一に、最後の晩餐の場で、ユダが去っていくまでに仰った励ましの言葉があります。第二に、ユダが去って行った後、他の弟子たちだけが残ったその場所で仰った御言葉があります。第三に、御霊について、そして第四に弟子(私たち)たちが受ける患難について仰いました。
告別説教の最後の部分で、主は患難の中でも勇敢であるべきだと仰いました。[ヨハネ16:33]「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」キリスト教の歴史を見れば、いつの時代も患難がありました。揺れ動く波のようです。短期的に見れば、悲劇もあり苦痛もあり、患難もあります。しかし、長期的な視角で見るなら、歴史は必ず勝利します。すでに主がこの世に勝利なさったからです。それゆえ、主は最後に「あなたがたは、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と仰ったのです。
「あなた方は患難に遭い、人々から憎まれ、迫害を受けるだろう。しかし、それは栄光の日、新しい日の直前にやってくる患難に他ならない」ということです。ユダヤ人はこのことを明確に理解していました。彼らは、現在の時代と新しい時代の間に必ず苦難が訪れることを知っていました。「あなたがたが今、直面している患難は、あなたがたが数多くの預言書で読んだ患難であることを覚えなさい。」これがイエス様のお言葉が意味することです。そして主は、「あなたがたは決して一人ではない」と強調なさいました。私たちが時に荒野で孤独になることもあれば、刑務所で孤独になることもあり、処刑の場で一人置かれることもあります。しかし、主はそのような時こそ、神様が私たちと共におられ、聖霊が私たちと共におられる瞬間であることを忘れないようにと言われます。
私たちは今、信仰の自由が許された地で生きています。しかし、その自由が奪われている人々は、この世界にいまだ数多く存在しています。今日の世界には、死の力に直面して、追い出され、引き裂かれ、恐れを抱いて生きている教会がまだたくさんあります。今でも、多くの教会が燃やされています。何千人もの教会員が火刑に処され、捕らえられ、殺されています。そのような迫害の真っ只中に置かれたクリスチャンがいるということを決して忘れてはなりません。さらに、私たちには彼らを守る責任があることも覚えておかねばなりません。
最後の告別の説教で、主は悲惨な状況下にある人々に、神様の御子として慰めの言葉を仰いました。「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」これらは告別説教の最後の言葉です。主は話すべきことを余すところなくお話しになりました。
「目を天に向けて、言われた」ヨハネの福音書11章にも、これと似た場面があります。[ヨハネ11:41] そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」 ラザロを蘇生なさった時に、捧げられた祈りです。イエス様の祈りの焦点はいつもどこにあったでしょうか。天にありました。その祈りを聞かれる方は、いと高きところにおられる神様です。それゆえ天に向かって祈るのです。
「父よ。時が来ました。」この「時」とは何を意味するのでしょうか。「救いの時」です。罪人を贖う時です。主のこの受難を通して、この十字架を通して、私たち罪人は救われるようになりました。その救いの時が来たということです。
聖書には「時」について言及されている箇所が実にたくさんあります。[ヨハネ7:6] そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」主の時がまだ来ていないと仰った例はたくさんあります。これらは「救いの時」を指していました。しかし、イエスは「あなたがたの時」はいつもここに来ていると言われます。「あなたがたの時はいつでも来ている。」これは、神の御子のお言葉に従う時が今であることを意味します。あなたがたがなすべきことを今やりなさい。イエス様は今、そのように祈っておられるのです。
そして、私たちはこの祈りに込められた主の従順を感じることができます。主は死にまで従われました。ピリピ人への手紙2章には、イエス様が死にまで従われたとあります。イエス様は従われることによって栄光の座に着座されました。主のご生涯を一言で言い表すとしたら、それは「従順」です。主は人類の救いに対する神様の御意志の前に完全に従われました。イエス様はここで従順の祈りをささげ、「時が来た」と仰いました。
「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」ここで「子の栄光を現わしてください」と仰いましたが、表面的には、非常に悲惨で悲劇的な十字架がイエス様の目前に迫っていました。主は翌日逮捕され、十字架にかけられました。しかし、その瞬間、彼は十字架にかけられることは栄光であると仰いました。同じ表現がヨハネ13章にもあります。これらは、ユダが主を裏切り、暗闇の中に消えて行った後にお語りになった言葉です。[ヨハネ13:31] ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」この「栄光」とは(十字架に)上げられることを指しています。[ヨハネ3:14] そしてモーセが荒野で蛇を持ち上げたように、人の子も持ち上げられなければなりません。ここでもまた、イエス様が十字架に上げられることが予告されました。十字架につけられることは最も悲劇的な死ではありませんか?しかし、なぜ主はそれが栄光だと仰ったのでしょうか。それは、主が受難の意味を深く知っておられたからです。
主がここで語っておられる栄光とは何でしょうか。光で満たされている状態を栄光と言います。 しかし、十字架は実際はとても暗いものではないでしょうか。イエス様が言いようもないほどに引き裂かれ、惨めにいばらの冠を被らされ、槍で刺され、苦痛を受けられた死の立場です。それは光とは程遠い、真っ暗な場所です。では、そのような場所がどうして光に満ちた栄光の場となるのでしょうか?どうしてそのようなことがあるでしょうか。そこは、神様の御子が私たちの罪を贖われた場所だったからです。主が上げられたことは私たちのための贖いであり、その十字架は私たちの救いのためでした。それゆえ、十字架が栄光になるのです。私たちを罪から救うための神の御子の受難であったからこそ、その受難が栄光なのです。
これはエマオに歩いて行った弟子たちが胸を熱くした理由でもあります。イエス様が律法と預言書を通してご自身の死について弟子たちに説明してくださった時、彼らの目が開かれました。その死が単なる死ではないということ、その死が失敗ではないということ、その死は私たちに永遠の命を与えるためのものであり、その死は勝利であったということ。その死は悲惨なものではなく、栄光あるものであったということを彼らは悟ったのです。そうして、彼らはキリストの受難に対する正しい理解を持つに至りました。
皆さん、私たちもたくさんの患難を経験します。そのような時、その患難の意味を深く悟ることが非常に大切です。私たちが今いる場所に至るまでに、どれほど多くの受難があったことでしょうか。私たちがここまで来られたのは、主の十字架を見つめながら歩んで来たからです。もちろん主の十字架とは比較できません。しかし、重要なことは、私たちがその受難の意味を知って生きることです。私たちが歩む道がたとえ受難の道だとしても、私たちの使命を見失うことなく、また受難の意味を忘れることがなければ、私たちもその道が栄光の道だと悟ることでしょう。
「子の栄光を現わしてください。」イエス様のこの言葉には、父に対する息子の深い慰めが込められています。イエス様は父なる神様の心の苦痛をすべて知っておられました。十字架は父が御子と一緒におられた場所でした。十字架につけられたのは御子でしたが、実際は神様もそこに共におられたのです。父が御子と共にその道を行かれたのです。ですから、御子の苦痛がまさに父の苦痛でした。それゆえ、イエス様は、苦痛の十字架を共に負われた父の苦痛を、今慰めておられるのです。その意味で「栄光」とは、神様に対する御子イエス・キリストの親密な慰めです。「父よ、この苦難の十字架は贖罪の十字架ではありませんか。これは栄光です。」イエス様はそのように祈られたのです。私たちがこの世界を理解することは極めて難しいでしょう。私たちがこの世界に深く入ることは容易ではありません。しかし、私たちがこの祈りの言葉を理解すればするほど、あまりに美しい世界を見ることができます。
また、この祈りは、イエス様が患難の中でどれほど雄々しくあられたかを示しています。<16章>の最後の部分で、イエス様は「勇敢でありなさい」と弟子たちに勧められました。そう仰ったイエス様ご自身が何より勇敢であられました。そうして、やがて訪れる患難と死を栄光だと雄々しく語られました。1節から5節において、主は栄光について続けて語っておられます。イエス様はご自分が苦難をお受けになる時、神様が共におられることを知っておられました。だからこそ、イエス様は強く、勇敢であられたのです。イエス様はご自分が歩まれる道を栄光の道だと大胆に仰いました。この中には実に深い世界が込められています。このように、私たちも危機に瀕する時、その道をたった一人で歩むのではないということを知らなければなりません。主と御霊が私たちの患難の中に共におられるということを信じ、私たちも主のように勇敢であるべきです。私たちは毎年この部分を読みます。この言葉(祈り)は、患難の中にいる私たちにいつも力を与えてくれますし、私たちが患難の中で、どのようにして正しい姿勢を保つべきかを教えてくれます。
「あなたの子があなたの栄光を現わすために」私たちは、人間の存在の目的は神様に栄光を捧げることだと学びました。今、私たちは神様の御子を通して、私たちの人生の究極的な目的が父の栄光を現すことだと改めて知りました。私たちもイエス様に見倣って、父なる神様の栄光を現すことを人生の究極的な目標としなければなりません。
[ヨハネ 17:2] それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
イエス様はこのように祈られました。父が御子に権威を与えてくださったということです。権威は低いものではなく、高いものです。権威は上からのものです。それは治める力です。イエス様は、神様がその権威をご自分に与えてくださったのだと仰っています。私たちは、イエス様のお考えとその人生の中には、「すべてのものの根源は神様である」との認識が深く根付いていることを知るようになります。この地の権威も栄光もすべては万物の根源者である神様から出たものです。イエス様は、愛する弟子たち、そして永遠のいのちを父なる神様が与えてくださったこと、そしてまた、全ての人々を治める権威も与えてくださったことを語られています。後に続く箇所でも、これを繰り返して話しておられます。
皆さん、私たちが子どもを育てる時、どのようなことを考えながら、彼らを育てるでしょうか。ただ私が産んだということで、私の子供だと考えるでしょうか。 私の夫も妻も、神様が与えてくださったのです。また、私たちが子供を見る時も、神様が私に与えてくださった子供だと考えなければなりません。私たちが常にそのように考え、祈りながら、子供を育てることが正しいのです。
「永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」神様はなぜイエス様にすべての人を支配する権威を与えてくださいましたか。その理由をここで仰っています。イエス様は「永遠のいのちを与えるため」だと仰いました。ここに「永遠のいのち」という言葉が使われています。ところが、「永遠のいのち」という言葉は、この地上で適用できる言葉ではありません。この地上のすべての目に見える存在は、やがて衰え、死を迎えるからです。この地上のあらゆるものはすべて塵のように消えます。では、永遠のいのちは誰に適用できる言葉でしょうか。それはただお一人、神様にのみ適用される言葉です。永遠のいのちの根源者は、神様だからです。ただ神様だけが永遠なるお方です。イエス様の祈りを見ると、「ただ神様お一人が永遠のいのちをお持ちであり、永遠のいのちは永遠者から来る」と仰いました。ところが、神様がその永遠のいのちを私たちに与えるために御子に権威を与えてくださったと仰いました。人間が有限であるのに、どのようにして永遠のいのちを受けることができるでしょうか。それは永遠なる神様の中に私たちが生きる時、万物の根源であられる神様とつながる時です。そして、その時にのみ、私たちは私たちが受け取る永遠のいのちの意味を見出すことができるでしょう。
[ヨハネ 17:3] その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
永遠者はただお一人です。その唯一のお方が真の神様です。では、私たちはどのようにして永遠のいのちを得ることができるでしょうか。イエス様は二つのことを知らなければならないと仰いました。第一に、唯一の真の神様を知ることです。そして第二に、神様がお遣わしになったイエス・キリストを知ることだと仰いました。イエス様は永遠の命であられる永遠なる神様から遣わされたお方です。私たちが神様とイエス様を知る時、永遠のいのちを得ることができます。
では、知るとはどのような意味でしょうか。「知る」とは「愛する」ことを意味します。私たちが主を真に愛する時、主をよく知ることができます。逆に言えば、主をよく知ってこそ主をよく愛することができるのです。それゆえ私たちが神様とイエス様を知り、愛する時、私たちが永遠の命を得ることになるのです。これは実に深い意味を持っています。
[ヨハネ 17:4] あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
この世において、御子が彼の人生のすべてを尽くして神様の栄光を現わしました。はじめてこの地で息をした瞬間から最後の息を引き取るまで、主の人生の一つの目的は永遠の神様の栄光を現わすことでした。弟子たちを育て、牧羊したすべてのことも、神様の栄光を現わすためでした。イエス様を通して神様がこの世に栄光を現わしました。
[ヨハネ 17:5] 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
イエス様は、世界が存在する前に、神様はすでに栄光をお持ちであったと仰っています。もともと神様はそのようなお方だったということです。それゆえ存在するすべてのものは、永遠なる神様を心と意志と魂を尽くして愛さなければならないのです。私たちは神様を知る必要があり、私たちは神様を愛するように創造されたのです。誰もが神様に向かっています。そのように神様の栄光を現すことが人生の目的なのです。神様の御子イエス様は、息が止まる最後の瞬間まで、その道を歩む決意を告白されています。最後の瞬間まで神様に栄光を捧げさせてくださいと祈っておられます。これを見ながら、私たちは「あぁ、イエス様がこのように生きられたのだ。このようなお考えを持って、このような姿勢を持って人生を生きられたのだ」ということが分かります。
次の箇所からは(6節以下)、弟子たちのことに触れられています。
[ヨハネ 17:6] わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
<6節>からは、弟子たちのための祈りです。私たちはどのような人たちでしょうか。イエス様の弟子たちです。世の中にはあまりにも多くの人がいます。その中で私たちは特別に選ばれた者たちです。ここで重要なポイントは「選択」です。最初の1-5節の御言葉の核心が「従順」だとしたら、6-19節の核心は「選択」です。「従順」とは、人間を救うというご計画の前で、イエス様が死にまで従われたことです。十字架を栄光として受け取り、イエス様が人生の全てを捧げ、従順なさいました。「選択」とは、世の多くの人々の中から、最初に弟子たちが尊く選ばれたということです。弟子たちは全能なる神様が選択した者たちです。とても高貴な選択です。胸が震えることです。
「世から取り出してわたしに下さった人々に」 イエス様が弟子たちをどのような心で育てたのかが分かります。神様がこの弟子を私に与えてくださったのだという思いを持って、イエス様は弟子たちにお仕えになったのです。弟子たちの足を洗う奉仕の心がここから出てきたのです。これは主人が僕に仕える心です。それと同様に、私たちも弟子や子供を育てる時は、このような心で育てなければなりません。
「彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。」 すでに前の部分でも言及されていたように、私たち(弟子)はみな父のものです。牧羊をいかにやるべきか、牧羊の基礎がここにあります。イエス様はご自分の弟子が父のものだと仰いました。ヨハネの福音書21章にもこの精神が現されています。「わたしの羊を飼いなさい」と主が弟子たちに仰いました。私たちが牧羊する時、彼が「主の羊」であることを肝に銘じなければなりません。主人が僕に仕える心とその愛で、主の弟子を育て、養育しなければなりません。
「彼らはあなたのみことばを守りました。」 これはイエス様の弟子たちに対する証です。イエス様が教えられたすべての御言葉を彼らがよく守ったのだと仰いました。弟子たちには基準に満たない部分があったことは確かでしょう。しかし、主はこの祈りにおいて、弟子たちを信じて証しされました。神様の御子が神様から来られ、また神様の元へと戻る最後の瞬間に、これを証ししてくださっています。たとえ彼らが証しされない水準にいたとしてもです。イエス様は罪悪感を感じさせる意図をもって語られたのではありません。本当に弟子たちを大切に思って抱いてくださるのです。これは私たちへの主の愛です。私たちへの主の信仰です。私たちがこの愛と信仰で立ち上がることができるのです。皆さんもイエス様に見倣って羊を飼う時に、皆さんの羊もこの愛と信仰の力で立ち上がることができです。私たちは以前、ルカの福音書22章32節を見たことがあります。イエス様がペテロに「あなたが倒れても、再びあなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と仰いました。後にペテロはその御言葉を守って、そのように主の羊を飼いました。主はそれを前もって知り、「彼らはあなたのみことばを守りました」という美しい証しをしておられるのです。
[ヨハネ 17:7] いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
イエス様は生命の根源を知っておられました。それでいつも父の栄光を現し、偉大な神様を常に証ししました。人が牧会をしていると、しきりに自分を高めようとします。従う者が私を信頼し、何かを持ってきて私に仕えてくれる時、私たちはいとも簡単に高慢になってしまいます。そこで、牧会において失敗しない秘訣は何でしょうか。すべてを根源者に捧げることです。すべての信仰と愛と奉仕が尊い神様(根源者)に向かって捧げられなければなりません。すべての栄光は神に帰せられるべきです。
このような主に似て、パウロもローマ書の冒頭において自らをドゥロス(δουλος,僕)として紹介しました。これは主と同じ美しい心を持ったパウロであったからこそ、語ることのできた言葉です。
「すべてが父なる神様から出て来たのだ」と仰るイエス様を見てください。皆さん、なぜ私たちが主の前に進まなければならないのでしょうか。どうして私たちが主の御言葉に従って、その道を同じく進まなければならないのでしょうか。なぜなら、神様の御子はそのすべての人生の焦点と終局点が、根源者であり、永遠なる神様に向けられていたからです。永遠のいのちの主体である神様に向かって、イエス様の人生が帰着しているからです。この点で私たちも主に見倣わなければなりません。そのため、私たちは私たちの人生の中で、すべての権威、栄光、そして美しい出来事を主に帰するべきです。(今この部分は主の祈りです。これは主が心の奥底にあることを真摯に明らかにされたことを意味します。主の深い考えと真実な生き方に似ていこうとしなければなりません。)
[ヨハネ17:8] それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
イエス様が神様の御言葉をすべて弟子たちに伝えたということです。すると弟子たちが、主が神様から出て来たことを知り、また神様がイエス様を遣わされたと信じました。ここで、私たちは主の弟子となるための2つの条件を見ることができます。一つは「知ること」であり、もう一つは「信じること」です。私たちはイエス様によって教えられた父なる神様からの言葉に耳を傾けるべきです。そして、エス様を知り、イエス様を信じなければなりません。
[ヨハネ 17:9] わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
イエス様は神様の御前で弟子たちを証しされました。「父よ、私はあなたの御言葉をすべて教えました。そして彼らはそれらすべてを悟りました。それゆえ彼らは私の弟子です。私は彼らが私の弟子であることを心から証ししますので、彼らをお守りください。彼らをこの地に残しますので、彼らを守ってください。」主はそう祈られたのです。
「なぜなら彼らはあなたのものだからです。」 私たちの宣教と牧羊の基本です。すべてが父のものとして帰属されなければなりません。私たちの人生のすべてが、結局はすべて主のものであり、すべて父のものにならなければなりません。
[ヨハネ 17:10] わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」 ルカの福音書15章の「放蕩息子の例え」を思い起こさせます。父親と長男の対話の中に次のような内容があります。 「私のものは、全部おまえのものだ」(ルカ15:31)。これは実に深い世界です。これは私たちが悔い改めることを通して回復しなければならない深い世界です。「私は誰に属しているのか」を自覚しなければなりません。イエス様と神様は切っても切れない関係です。私たちもこのように父のものとして帰属されなければなりません。「私のものが父のものであり、父のものが私のものである」という関係を回復しなければなりません。
「わたしは彼らによって栄光を受けました。」 この栄光とはどのような栄光でしょうか。弟子たちに仕えることで得られる光栄です。主が「わたしの羊を飼いなさい」と仰いました。羊を飼い、彼らに仕えることによって栄光を得るのです。これは世の中で聞かれる音ではありません。全く違う次元の世界から聞こえる音です。新しい言葉です。新しい道です。新しい人生の姿勢です。 しかし、これこそ神様が最初に創造された本来の世界です。
[ヨハネ 17:11] わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
「わたしはもう世にいなくなります。」 これは悲しい瞬間です。今は弟子たちを置いて去らなければならない時だからです。しかし、主はどこから来て、どこへ行かれるかをはっきり知っておられました。私たちはいつ道に迷い、さまよってしまうのでしょうか。私たちがどこから来てどこに行くのかが分からない時、私たちの人生がさまようになるのです。イエス様は私たちが神様から来て、私たちの命が再び神様のもとに戻ることを明確に知らせてくださいました。この神様の御子を通して、私たちが神様に戻る道をはっきりと知るようになりました。
しかし、今は弟子たちが罪深い世の中で、彼らを迫害し、憎む者たちの中に残されることになりました。それゆえイエス様は彼らを守ってくださいと祈っておられるのです。これを見ると、私たちがこの世に存在する理由が分かります。私たちがこの世で死なずに生きていられる理由は、まさにこのような主の祈りのおかげです。 主の祈りのリストの中に私たちの名が載せられているのです。
「彼らが一つとなるためです。」 イエス様は彼らが一つとなるように祈っています。私たちがどのようにして一つになることができますか? 一つになることは、愛によって可能になります。 私たちが愛の戒めを守るとき、私たちはひとつになることができるのです。
[ヨハネ 17:12] わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
イエス様は「羊たちを私が守りました」と仰っています。私たちの主がそのように生きられたので、私たちの使命も羊たちを守ることであるのです。これはヨハネの福音書の10章にも出てきます。 [ヨハネ10:11-13] わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」羊の所有者でない雇い人は、危機に瀕すると羊を捨ててしまいます。しかし、良い牧者はその羊のために命を捨てます。 私たちの主は真の牧者として生きられました。私たちを守り、保護してくださいました。私たちもこのように羊たちを守らなければなりません。主が私たちに「わたしの羊を飼いなさい。わたしの羊を牧しなさい」と仰いました。これが牧羊です。父が私たちに与えてくださった人々、世の中から区別され、選択された人々を私たちがよく守らなければなりません。
「ただ滅びの子」 これはユダを指します。ユダの他には一人も逃さず、一人もつまずくことがないようにイエス様が守ってくださったのです。私たちが教会で牧会をする時、「私のせいでつまずいた者はいないだろうか」と常に自問しながら生きなければなりません。私たちもキリストに見倣って「父よ、私が羊たちをよく守りました」と言えるようでなければなりません。
[ヨハネ 17:13] わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
今はイエス様が去らなければならない時であり、涙の出る悲しい瞬間です。しかし、主は喜びに満ち溢れて、その喜びが弟子たちの中で全うされることを願われました。今は喜びよりも涙と苦痛の瞬間ですが、イエス様は喜びについて仰いました。どんな喜びでしょうか。喜びはどこから来るのでしょうか。それは愛から来るものです。愛がない時、私たちは苦しみます。喜びは愛を通してのみ私たちに訪れるものです。私たちは愛する時に喜びを感じます。なぜでしょうか。神様が愛だからです。愛の神様が愛するように私たちを創造なさったので、私たちは愛する時に嬉しくなるのです。愛と喜びはコインの両面のようです。
喜びについてはヨハネの福音書15章でも語られました。主が「私の中にいる喜び」について仰いました。ここで言う喜びとは何でしょうか。それは十字架を意味します。十字架は悲しみと涙と苦痛ですが、それは私たちを罪から自由にさせるため、主が背負われた苦難の十字架です。贖罪の十字架です。私たちはこれを「私たちに向かう主の愛」と言います。主にはその愛が喜びなのです。これは自己満足による喜びではありません。これは犠牲と無にすることです。これは愛です。「わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために」この言葉の意味は「彼らの中にこの愛の世界が開かれることを願います。そうして、このような喜びが満たされることを願います」ということです。この愛の世界を見ることができる時に、私たちはこの主の祈りの意味を理解することができます。この世界が開かなければ、この祈りを何度読んでも、それが何を意味するのかが分かりません。これはどのような意味なのか、私たちの心に全く近づいてこなくなります。
[ヨハネ 17:14] わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
イエス様の真の弟子は憎まれるということです。その理由は何ですか? それは彼らが世の中に属さなかったからです。彼らが世の人と同じではなく、罪深い現実に属さなかったからです。彼らは区別されており、世の道を進むことなく、狭い道を行くからです。前の部分の告別説教と同じ言葉です。また、これは私たち(今日の教会)に該当する言葉でもあります。
[ヨハネ 17:15] 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
イエス様が弟子たちのためにいつも祈られたことがあります。私たちがいつも私たちが悪に陥らないようにと祈られました。これは主が私たちに教えてくださった主の祈りにもあります。主の祈りの後半部分に、三つの祈りの題目があります。一つ目は、現在のための祈りであり、日用の糧を与えてください。二つ目は、過去のための祈りです。私たちが過去に赦すことのできなかった人を全て赦して生きるようにしてください。三つ目は、未来のための祈りであり、試みに遭わせないようにください。もし悪に陥っても その悪から救い出してください。このように祈りなさいと仰いました。この告別の祈りにおいて、イエス様は私たちが悪に陥らずに守られることを祈っておられます。
[ヨハネ 17:16] わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
イエス様の弟子たちは世の中から区別されたということです。「パリサイ人」という意味は「区別された」という意味でした。それは、世の中から区別された者を意味します。しかし、本当に区別された者はイエス様の弟子たちです。世の中で生きているからといって、世と混ざっているわけではないのです。世と同じではありません。彼らは選ばれた者たちです。たとえその行く道が狭く険しい道だとしても、自分をよく守ってその道を歩んで行く者たちです。たとえ世から憎まれるとしても、世に属している者ではなく、彼らは主に属する者たちです。
[ヨハネ 17:17] 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
私たちが俗世の中で、私たち自身を守ることができる原動力は何でしょうか。世に陥らず、誘惑に陥らず、その時流に流されず、罪の誘惑に陥らないようにしてくれるものは何でしょうか。それは真理です。ただ真理の光によって、私たちが闇の中でもさまようことはないのです。
では、その真理とは何ですか。それは父が私たちに与えてくださった御言葉です。しかし、神様から来たその御言葉は、目があっても見れず、耳があっても聞けません。けれども、私たちには見え、聞こえ、開かれた世界です。私たちはこの御言葉を知っています。 だからどれだけ恵まれた人たちでしょうか。
[ヨハネ 17:18] あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。主は神様から遣わされた人です。 私たちは主から遣わされた者です。
「遣わされた者」とは ギリシャ語でアポストロス(Apostolos)です。これは一国の大使のようなものです。私たちはこの使命を悟って生きなければなりません。私たちの存在の意味と目的がここに出ています。私たちは弟子です。神様が私たちを派遣されました。どこに派遣されたのでしょうか。私たちを世に派遣しました。まず神様が私たちをこの世から選び出されました。私たちをあらかじめ知っておられ、定められました。主は私たちを区別し、選択して弟子としてくださいました。そして私たちを再びこの世に派遣しました。選択と派遣! 私たちを選ばれた目的は何でしょうか。それは私たちを派遣するためです。最終的に私たちは遣わされたのです。これが私たちの使命です。弟子はこれをよく悟らなければなりません。私たちがただ世の中にいる多くの人々の一人ではないということです。これが私たちのアイデンティティです。主が世から区別し、選択して派遣された私だということです。主は「彼らを守ってください」と祈っておられるのです。
[ヨハネ 17:19] わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
「聖め別たれるためです。」 私たちが目指すべき人生の目的があります。それが何かというと、「聖さ」です。使徒ペテロも次のように言いました。[第1ペテロの手紙2:9] しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」 私たちは聖なる国民となるべく選ばれた者たちです。私たちがこのような権威と威厳を持って生きなければなりません。かつて、ユダヤ人の王は油を注がれることで王とされました。王だけが油を注がれました。使徒ペテロが「あなたたちはそのような王である祭司だ」と言っているのです。私たちを招いてくださり、主の美しい御業を宣べ伝えるためだと言いました。主が選択した弟子の定義をペテロを通して聞いています。私たちの人生の究極点は何でしょうか。聖さです。聖なる者となることです。私たちは信仰によって義と認められ、聖霊の力によって聖められます。天の都に行く者は罪の衣を洗い清め、白い衣を着なければなりません。これが聖なる衣服です。聖なる衣服を象徴する白い衣だと言いました。私たち自身が必ず聖なる者にならなければなりません。
次の箇所からは(20節以下)この世に向けて捧げた主の祈りです。
[ヨハネ 17:20-21] わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。21それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
主がこの地に来られたのは当時の弟子たちだけのためではありません。未来のすべての教会と主の御言葉を聞き、主に従うすべての人々のためのものです。そのすべてを「世」と言いました。 世のために主が来られたのです。「天においても、地においても、いっさいの権威をあなたたちに与える。だから、あらゆる国の人々を弟子とし、バプテスマを授け、彼らを神の民としなさい」と仰いました。これが私たちの使命です。
「わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」 愛によって一つになることで、世が主を知り、主を信じるようにと主は祈られました。
[ヨハネ 17:22] またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
ここで重要なキーワードは何でしょうか。「一つである」です。第一段落のキーワードは「従順」、その次の段落では「選択」、そして第三段落では「一つである」です。教会が一つにならなければなりません。教会が政治と神学に分裂しました。政治への関与は、本来は教会により良い道を開く目的でなされたものでした。そして、信仰をより深めるために神学がありました。しかし、教会政治と神学がむしろ主の体である教会をいっそう引き裂く結果となってしまいました。教会に深刻な分裂をもたらしました。私たちは常にこれを警戒し、悔い改め、反省しなければなりません。主の命令に従って、主の体である教会が一つになれるように努めなければなりません。主のこの祈りに私たちが応答しなければなりません。私たちがいつも一つになるために生きなければなりません。そして、世の中に向けて、一つの体と一つの声として生きていかなければなりません。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」 主が一つである(Unity)のために祈られました。これを決して忘れてはなりません。
[ヨハネ 17:23-24] わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
神様とイエス様は愛によって一つとされていました。イエス様はそのすべての祝福と栄光に世も参加することを願っておられます。その祝福を彼らと分かち合うことを願っておられるのです。それは愛によって一つになることで可能となります。
「わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」宣教とは何でしょうか。私たちが持っているものを分けてあげることです。最終的には、世にこのことを知らしめ、彼らも主にあって一つになるようにしなければなりません。この働きのために私たちが一生懸命生きていかなければなりません。
この三つ目の祈りは「宣教」に関することです。主の中で回復される神の国において最も重要なことは何でしょうか。つまり、宣教で最も重要なことは何でしょうか。それは「一つになる」ことです。教会が分裂してはいけません。教会が分裂してしまえば、宣教することができません。それゆえ、私たちはいつも一つになければなりません。キリストの共同体にならなければなりません。一つの体にならなければなりません。そのために、私たちは何をすべきでしょうか。主の戒めを守らなければなりません。主の御言葉に従って生きるなら、私たちが一つになることができます。そうして私たちは互いに仕え合い、従い合いながら生きていくことができます。そうして世に勝つことができます。世のすべての人々を主のもとへと戻らせることができます。 ですから、いつもこの祈りを心に刻んで生きていくことを願います。
最後の2節を読みます。最後に主は前述の祈りを主の祈りの中で要約されました。したがって、私たちはこの祈りを常に記憶しなければなりません。そして、この祈りが現実のものとなるように生きていかなければなりません。
[ヨハネ 17:25-26] 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」Ω