2024年03月11日
*本文: ヨハネの福音書 18章22-27節
[ヨハネ 18:22-23] イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。 23 イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜわたしを打つのですか。」
アンナスは自分がイエス様を捕らえることはできないということに気づきました。彼らは言葉で勝てないことがわかると、暴力をふるいました。
[ヨハネ 18:24] アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。
アンナスは自分はこれ以上何もできないと考えて、義理の息子カヤパに主を引き渡しました。
[ヨハネ 18:25-27] さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。 26 大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」 27 ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。
主が尋問されるこの場面で、ペテロは外で火にあたって暖まっていました。その時は火が明るくなくて人々はお互いを認識することができませんでした。それでペテロは大祭司のしもべたちと一緒に暖まっていました。しかし、彼らがどのようにしてペテロだと気づきましたか?他の福音書(ルカ22章)を見ると、召使いの女がペテロに気づいたとあります。火が弱まっているときに焚き木を足すと、火が燃えついて明るくなります。その時に一緒に暖まっていたペテロを見つけるようになったのでしょう。
ところが、ペテロの問題は最後まで主の証人になれなかったということです。それだけでなく、自分が主の弟子、主の証人であることを否定しました。[マルコ 14:72] するとすぐに、鷄がもう一度鳴いた。ペテロ は、「鷄が二度鳴く前に、あなたはわたしを知らないと言います。」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。(パレスチナでは鶏が二度目に鳴くのは夜明けの3時頃だと言われています。)
では、この場でペテロは証人としてどうあるべきだったのでしょうか?それは使徒の働き4章で明らかにされています。<使徒の働き4章>を見ましょう。
[使徒 4:6] 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。
[使徒 4:12-13] この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 13 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。
ここでは勇敢で堂々とした姿に変えられたペテロがいます。ペテロはイエス様を尋問したカヤパの前でこのような証言者になるべきでした。
しかし、一番弟子であったペテロには恥ずかしくて卑怯でせせこましい姿がありました。ペテロは証言者として出て話すべきでした。主のことを恥ずかしがらず堂々と証しすべきでした。しかしペテロは主が尋問されている場で、主を弁護することも証言することもできませんでした。彼は主を否定しました。その時、鶏が鳴きました。鶏が鳴くと、ペテロも泣きました。激しく泣きました。
[ルカ 22:61-62] 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。 62 そして、外に出て行って、激しく泣いた。
使徒ルカは、ペテロが主のことばを思い出して、外に出て行って、激しく泣いたと書きました。この世界が本当に深いです。ペテロの中には「もう少しの辛抱だったのに…」という心があったはずです。私たちは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のおことばを深く黙想すべきです。「鶏が鳴く前」という言葉の意味は何でしょうか?
私たちの信仰にもこのようなことがあります。私たちの信仰において、私たちが乗り越えるべき決定的な問題があります。しかし、その問題を乗り越えられるところまでほとんど来たのに、そこで倒れて諦めてしまうのです。だから私たちが覚えるべきです。ペテロが否定すると、すぐに鶏が鳴きました。夜明けが来ました。彼がもう少し耐えていたら、その峠をもう少し耐えていたらよかったはずです。
私たちにもこのような姿があります。もうほとんど来たのに、裏切ります。ゴール前で倒れます。もちろん、夜明けを迎えるまで大変なことがあります。極限の苦痛があるはずです。しかし、もう少し進めばいいのです。もう少しだけ過ぎれば、鶏が鳴いて夜明けが来ます。私たちが受ける苦難があります。極限のつらさと苦痛があります。それが十字架だと言えます。私たちが背負う十字架があります。このような十字架、あのような十字架、それぞれの十字架を背負って主に従っています。
鶏が鳴けば、夜明けが来ます。漆黒のような暗闇のすべてが終わり、夜明けが来ます。私たちは鶏が鳴く直前に、主を否定したこの弟子の姿を覚えなければなりません。そして彼の泣き声をいつも覚えているべきです。私たちはこの御言葉を通してすべて知りましたから、歴史的な過ちを繰り返してはいけません。
[ルカ 22:31-32] シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。 32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエス様はペテロがつまずくことを予告されました。人が倒れてつまずくとき、それを見るのはとても大変です。しかし主の弟子に対する愛と信仰を見てください。主の慰めと勧告が「ルカ22章」にでています。「あなたは倒れたとしても、再び立ち直るだろう。立ち直ったら、あなたは癒され、もっと強くなって多くの人を導きなさい」とおっしゃいました。後にペテロは本当にそのような人になりました。私たちはこの計り知れない主の愛を覚えるべきです。
しかし根本的に私たちはいつも目を覚まして祈り、主を否定したり、十字架を投げ捨てるような悲しい歴史を繰り返す者になってはいけません。Ω