礼拝説教

御霊も弱い私たちを助けてくださいます


2024年01月15日

*本文: ローマ人への手紙8章26-27節

[ローマ8:26] 同じように御霊(みたま)も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

<26~27節>で、使徒は祈りの深い世界について教えています。私たちは普通、どのような時に祈りをささげるのでしょうか。もし自らの能力に自信を持つ人であれば、祈ることもしないでしょう。私たちは弱いからこそ祈るのです。使徒パウロはテサロニケの信徒たちに絶え間なく祈るようにという励(はげ)ましを与えました。[Ⅰテサロニケ 5:17] 絶えず祈りなさい。なぜ、私たちは祈る必要があるのでしょうか?私たちが祈るのは、自分の力では、必要なものを手に入れたり、完成させたりすることができないからです。私たちは、上から来る恵み、力、助けを必要としているので、祈るのです。上から来る恵みと力と助けが必要だからこそ、私たちは祈らなければなりません。

では、どうしたら神様に受け入れられるような祈りができるのでしょうか。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが」問題は、私たちが何を祈ればいいのかわからないことです。使徒は、私たちの祈りの限界について話しているのです。私たちは、何を祈ればいいのか、本当に必要なものは何なのか、それさえもわからないのです。パウロは、自分が不十分(ふじゅうぶん)で弱い存在であることを自覚しています。この使徒がいかに人間の本質を深く理解しているかがわかります。人間は一寸先の未来を予測(よそく)することさえできないのです。

中国に「人間万事塞翁が馬」という有名な故事があります。塞(さい)という地方に一人のおじいさん(翁(おう))がいました。彼は一頭(とう)の馬を育てていましたが、ある日その馬が逃げて行きました。真心(まごころ)を込めて育てた立派な馬が逃げてしまうというのはどれだけ悲しいことでしょうか。しかし、このおじいさんは「人生とはそんなものだ」と言って、悲しむこともありませんでした。するとある日、その馬が雌(めす)馬と子(こ)馬を連れて帰って来ました。人々はそれを見てとても喜んだのですが、おじいさんはただこう言ったのです。「何をそんなに喜んでいるのか。良いことがあれば悪いこともあるのだ。未来に起こることは誰にも知ることはできない」と。その後(ご)、おじいさんの言った通り、本当に悪いことが起こりました。彼の息子が戻(もど)ってきた馬に喜び勇(いさ)んで乗っていると、落馬(らくば)して足を骨折(こっせつ)してしまいました。良いことが、転(てん)じて悲しい出来事に変わってしまったのです。そこでおじいさんは、「足が折(お)れたことは、良いことの前触(まえぶ)れかも知れない。誰がそれを分かるだろうか?」と言いました。その後、戦争が起こって若者が一斉(いっせい)に徴兵(ちょうへい)されることになりました。一度徴兵されれば、二度と生きては帰ってくることのできない悲惨な戦争でした。しかし、彼の息子は骨折が理由で徴兵を免除(めんじょ)されました。そうして生き延(の)びることができた、という話です。この物語の教訓(きょうくん)は、「未来は誰にも分からない」ということです。

そうです。私たちは一寸(いっすん)先の未来すら知ることができない、弱さと限界を持った存在であるため、助けが必要なのです。「 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。」聖霊は、私たちが弱いからこそ、私たちを助けてくださるのです。使徒が理解していたクリスチャンの人生は、一人で生きる人生ではなく、聖霊が導き、守ってくださる人生なのです。<ローマ書8章>は、私たちが聖霊とともに生きることを証ししています。聖化の道を歩むとき、私たちはしばしば自分が少しも変わっていないように見えて失望(しつぼう)することがあります。自分の力で変わることは不可能(ふかのう)です。しかし、信仰は不可能な可能性を秘(ひ)めたものです。強くしてくださる方によって、私にできないものはなく、成し遂げられないものはありません。[ピリピ 4:13] 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。どのようにしてすべてを行うことができるのでしょうか?聖霊の恵みと保護(ほご)と協力(きょうりょく)によって、私たちは全てのことが可能になるのです。使徒は、聖霊の助けによって自分の人生において不可能なことが可能になり、完全なものとされるのだと証ししているのです。

人間はあまりにもろ(脆)く、無知で、愚かな存在です。ですから、私たちは神様の助けを求めなければなりません。私たちは主を必要としています。しかし、何をどのように求めたらいいのか分からないのです。そのような私たちのために、<ローマ書8章>を通して、使徒は祈りの深い世界について教えています。「 御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」私たちの祈りには、とりなし(仲介者(ちゅうかいしゃ))が必要だということです。これが祈りの秘訣(ひけつ)です。私たちのためにとりなしてくださる仲介者を通して祈らなければなりません。完全な祈りとは、まさに聖霊が私たちと共におられ、私たちを導いてくださる祈りです。聖霊の導きに従うとは、聖霊が「仲介者」になるということを意味します。

<第一テモテ2章5節>と<ヘブル書7章24-25節>を見ましょう。[Ⅰテモテ 2:4] 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。/ [ヘブル 7:24-25] イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司(さいし)職(しょく)を持っておられます。25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。イエス様は神様と人間との間の仲介者であると書かれています。真の人間であられるキリストが、私たちの状況(じょうきょう)を何から何までご存じであり、神様と私たちの仲介者として立っておられるのです。ですから、私たちはイエス様を通してとりなしの祈りをしなければなりません。それゆえ、私たちはイエス・キリストの御名によって祈るのです。私たちの祈りの基本は、仲介者であるイエス・キリストを通して祈ることです。これが真に正しい祈りです。罪人の祈りは、そのままではサタンから誹謗中傷を受けるしかありません。「よくもまあ、お前みたいな人間が、神にそのようなことを願い、祈ることができるものだ」と。しかし、イエス様を通して、私たちに神様に近づく道が開かれたのです。ヘブル書の著者(ちょしゃ)は、<10章19節>でこう言っています。[へブル 10:19] こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆(だいたん)に聖所(せいじょ)に入ることができます。罪人の祈りは神様に受け入れて頂(いただ)くことはできません。罪人の祈りは神様に届(とど)けられないのです。しかし、イエス様の血潮(ちしお)によって、私たちは大胆に聖所に入ることができるようになりました。私たちは、王である神様に私たちの願いをお伝えできる力を得たのです。

<ローマ書8章>で、パウロは、私たちが祈る時、聖霊がとりなしてくださるのだと語っています。聖霊はどのようにして私たちに臨むようになったのでしょうか。主が復活して天に昇られた後、神様は私たちに聖霊を遣(つか)わされました。[ヨハネ14:16] そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。私たちは、はるか高いところにおられる神様に一対一で会うことはできません。しかし、神様は聖霊を贈り物として送ってくださり、私たちの内に住まわせ、私たちを助けてくださるのです。聖霊は私たちの弱さを知っておられて、私たちを助けてくださいます。子どもを育ててみるとよくあることですが、子どもにきれいな服を着せて遊びに行かせても、必ず泥(どろ)だらけになって家に帰って来ます。いくら洗ってきれいにしてやっても、子どもはその度に服を汚(よご)してきます。それでも母親は何度でも服を洗ってやります。このように、聖霊は愛に満ちた母親のように私たちの面倒(めんどう)を見てくださいます。私たちが人生に疲れ果て、痛みと悲しみと涙を経験する時も、聖霊はそのすべてをご覧(らん)になっておられ、私たちを慰めてくださいます。聖霊の心は、子供を育てる母親の心です。子どもが悲しむ時、子ども以上に悲しむ心です。私たちは一人ではありません。聖霊は私たちのことをよくご存知であり、いつも私たちとともにいてくださいます。そして、「心配してはならない」と言って、私たちの弱さを助けてくださるのです。

使徒は、私たちをとりなしてくださる聖霊の祈りがどのようなものかを説明するために、「うめき」という表現を使いました。これは、聖霊が切実な思いで私たちのために祈ってくださるという意味です。この「うめき」とは、私たちの罪を責(せ)めるという意味ではなく、私たちに対する切実(せつじつ)な、「うめき」です。<エゼキエル21章6節>を見ると、「人の子よ、あなたは、うめけ。彼らが見ているところで、腰(こし)が砕(くだ)けるほど激しくうめけ」とあります。これは今、裁きの剣の下にあるイスラエルの民を見て、預言者エゼキエルに言われた神様の御言葉です。神様は「うめけ」と言われました。「彼らが見ているところで、腰(こし)が砕(くだ)けるほど激しくうめけ」と。聖霊はこのように私たちのためにうめきつつ、神様に祈ってくださるのです。聖霊は、私たちの祈りを受けて、神様に真摯(しんし)にとりなしてくださるのです。私たちの祈りは、聖霊様がとりなしてくださる祈り、聖霊様が私たちと共にいてくださる祈りであるべきです。私たちの祈りが正しい祈りでなくても、求めるべきことを求めていない、不十分な祈りであっても、聖霊はことばにならないほどの深いうめきをもって私たちのためにとりなしてくださるのです。 これは、それまでイスラエルの民の誰も享受(きょうじゅ)することのなかった特権です。ここで使徒は、全く新しい、驚くべき聖霊の恵みを受けて生きる聖徒の特権について語っているのです。

[ローマ8:27] 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

「人間の心を探る方」とは、誰でしょうか。それは神様です。[Ⅰサムエル16:7] 主はサムエルに言われた。「彼の容貌(ようぼう)や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退(しりぞ)けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」/ [エレミヤ17:10] わたし、主が心を探(さぐ)り、心の奥を試(ため)し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報(むく)いる。神様は私たちの心と思いを探(さぐ)られる方です。神様は聖霊の心、その思いもご存じであると言われています。私たちの思いは、聖霊の思いに遠く及(およ)びません。私たちの思いは短絡(たんらく)的であり、無意味な祈り、とても神様に聞き入れて頂(いただ)けないような祈りをしてしまいます。しかし、聖霊様が代わりに祈ってくださるので、私たちの欠(か)けだらけの祈りを完全なものにしてくださるのです。聖霊が、神様の御心に沿(そ)った祈りを私たちのためにささげてくださるのです。そうすれば、神様は私たちの足りない心、罪深い心を見るのではなく、私たちのためにうめきをもってとりなしてくださる聖霊の思いを知って、聖霊のその祈りを受け入れてくださるのです。それゆえ、神様は聖霊の祈りに答えてくださるのです。使徒は、私たちがこの特権の下に生きているという事実を知ってほしいと願っています。そして、主が約束された新しい時代が到来したことを告げているのです。[ルカ 11:13b] …天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。この主のみ言葉のように、私たちは主の驚くべき犠牲によって開かれた聖霊の素晴らしい新時代に生きているのです。私たちは聖霊の驚くべき恵みによって享受(きょうじゅ)している特権に感謝して生きなければなりません。Ω

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