礼拝説教

“イエス様の愚かな十字架”


2023年10月08日

*本文: ローマ書 5章6-8節

[ローマ書 5:6] 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

「定められた時に」これは歴史を見る目です。「定められた時」(英訳:in due time - KJV; at just the right time - NIV)。

[エペ1:9-10] 9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10 時が満ちて計画が実行に移され…

「時が満ちて計画が(a plan for the fullness of time - ESV)」とあります。

[ガラ4:4] しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

ここにも「時が満ちて(the fullness of time)」とあります。ギリシャ人は時を表現する際、二つの単語を使用しました。一つは「クロノス(Chronos)」であり、量的な時を意味します。もう一つは「カイロス(Kairos)」で、質的な時を意味します。イエス様のたとえにもありましたが、新婦が新郎に出会う時(マタ25:1-13)がそれにあたります。一人の女性が成人して婚礼を挙げる、一生でただ一度の時、これがカイロスです。そして、キリストがこの地に来られたのもカイロスの時でした。それは量的な時がすべて満ちて、質的な転換が起こるひと時を意味します。

アッシリア、バビロン、エジプト、中国、そしてローマ等(など)、イエス様が来られる以前に存在した全ての文明を見ると、人間ができる全てのことを試みたことが分かります。人類は自らの誇りと高慢によって、神なきあらゆる制度や文明を作り上げました。しかし、それは人間により大きな苦痛を与えるだけであり、罪責にがんじがらめにされた人間の魂はより大きな悲しみと苦痛の中で呻くしかありませんでした。それが人類の歴史であり、イエス様がこの地に来られた当時の歴史的状況でした。<6節>の「定められた時(in due time - KJV; at just the right time - NIV)」という言葉は、いよいよ「時が満ちた」という意味であり、そこには深い歴史理解が込められています。当時、全ての道はローマに通じていました。外部的で量的な事柄の全ては、ローマ文明を通して完全に備えられていました。その後、多くの人々が質的な転換点、ターニングポイントを待望していました。この中には二つの意味が込められています。第一に、人類にできることは全てやってみたが、結局人間の魂はより大きな絶望と苦痛に陥るしかなかったということ。第二に、外的な状況はすでに完成され、準備が整(ととの)えられたため、残すは質的な転換のみであったということです。

「私たちがまだ弱かったころ」パウロはそのように言いました。「弱かったころ」という言葉は、人間の魂が自らを救い出す解決(かいけつ)策をどこにも見出すことができない、悲惨な状況を指しています。私たちが私たち自身の力では「どうすることもできなかったとき」ということです。そのような人間に残された道は何だったのでしょうか。それはただ一つ、神様の救いを待ち望む、ということでした。

「不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」これが私たち罪人のために和解(わかい)のささげものとなってくださった、主の限りない愛です。キリストが「不敬虔な者(the ungodly)」のために死んでくださいました。この時代は、人々が神様を信じようとせず、心の中心に神様を招(まね)こうとしなかった(ロマ1:28 神を知ることに価値を認めなかった)不敬虔(ungodliness; godlessness)の時代でした。彼らを救うためにキリストが死なれました。人類が時代の難局(なんきょく)と苦痛を解決することができず、もはやなす術がなかったその時に、キリストが来られました。これは<ヨハネの福音章3章16節>で語られていることと同じです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハ3:16a)。<ヨハネの福音章3章16節>はヨハネの福音であり、<ローマ書5章6節>は言うなればパウロの福音です。この二つの句(く)節(せつ)は同じメッセージを伝えています。

[ローマ書 5:7] 正しい人のためであっても、死ぬ人はほどんどいません。善良(ぜんりょう)な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

命がどれほど尊いものでしょうか。命を捧げるということがどれほど尊いことでしょうか。母国の勝利のために戦争に命を捧げた人々がいます。彼らの棺(かん)は国旗に包まれて、荘厳な音楽が流れる中、国立記念墓地(ぼち)に埋葬されます。自国のために命を捧げるその死は、その国において非常に価値あるものとされ、義なる行為とみなされます。しかし、主は誰のためにその命をお捧げになったのでしょうか。本当にそれに値(あたい)する人々のためにその命を捧げられたのでしょうか。そうではありません。神様の御怒りの陰の下で滅び、死ぬしかなかった、敵のような私たちのために主は死なれたのです。その死は罪人のための死であったのです。<ヨハネの福音書15章>でイエス様は仰いました。[ヨハ15:13] 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。愛する友のために命を捨てること以上に大きな愛はありません。しかし、パウロは「私たちがまだ罪人であったとき」と言いました。死んで当然の罪人である私たちのために主は死なれました。私たちは、自らの義を掲(かか)げ、その義の追求のために神様に反逆(はんぎゃく)していた者たちでした。そのような私たちのために主は死なれたのです。これは驚くべき愛、前代未聞の愛です。キリストは不敬虔な罪人のために死なれました。これは過去に起こった事実であり、そのような出来事があったという証言です。[詩66:16] さあ聞け、すべて神を恐れる者たちよ。神が私のたましいになさったことを語ろう。この聖句が私たちの信仰の告白となるべきです。神様は、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛され、そのひとり子が私たちのために死なれました。私たちはこの驚くべき神様の愛を証ししなければなりません。

[ローマ書 5:8] しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

神様はご自身の愛をどのようにして明らかにされたのでしょうか。御子の死を通してです。その死こそパウロが伝えようとしたキーワードです。主の死は命を意味します。これは私たちにとってあまり馴染み(なじみ)のない言葉です。死とは何でしょうか。存在(being)が非存在(nonbeing)になることです。全てが完全に消えてなくなることです。死とは、地上で手に入れたあらゆる富、栄華、誇り、権勢を失うことです。死は全ての終わりです。それゆえ、死は人間にとって最大の恐怖でした。しかし、キリストが私たちのために死なれたことによって、ご自身の尊い命を与えてくださったのです。これは実に理解しがたい事実ではないでしょうか。

パウロは<8節>を通して何を語っているでしょうか。キリストは、最も大きな罪を犯した不敬虔な人々のために死なれたということです。堕落した人間は、罪に染まった、罪の塊のような存在です。それゆえ、主の愛が馴染みのないものに感じてしまうのです。イエス様は敬虔でない人々のためにご自身の尊い命を与えることによって、神様の愛の真理を明らかにされました。イエス様の人生そのものが神様の完全な自己啓示でした。つまり、イエス様の「愚かな十字架」を通して、愛の神様が実際的、具体的なかたちで明らかにされたということです。パウロは<8節>において、イエス様の人生がいかに愚かに見えるものであったか、しかし、その愚かさがどれほど偉大な、驚くべき神様の愛であったかを表現しました。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」これが福音です。この福音は、律法の支配するこの世で生きる私たちにとって、思いも寄らない、実に驚くべき知らせでした。これこそ、神様がご自分を明らかにしてくださった自己啓示です。この啓示を前にして、私たちの魂はこう悟るべきなのです。「そうだ、これこそが神様の真実のお姿なのだ」と。

神様の愛は「敵をも愛する愛」です。それは、悪人にも善人にも太陽を昇らせる愛です。

[マタ5:44,45,48] 44 しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなた方の父の子供になるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも天を降らせてくださるからです。48 ですから、あなた方の天の父が完全であるように、完全でありなさい。

イエス様は、私たちが神様の愛に倣って生きる時に、本当の意味で神様の子供になるのだと仰いました。子供は父親に似ているものです。これは私たちの魂に大きな衝撃を与える教えです。イエス様はそのご生涯を通して神様の愛を私たちに見せてくださいました。イエス様は「私が真理である(ヨハ14:6)」と仰いました。キリスト教の真理(The Logos)とは、イエス・キリストが見せてくださった愛を指します。敵である私たちに、たった一つの命を差し出してくださった愛です。これこそが神様の愛なのです。その愛を私たちにはっきりと見せてくださいました。御子の死は私たちのために死なれた死です。これ以上に美しい死は世に存在しません。ですから、彼の死は単なる死ではなく、愛の確証であることをパウロは証ししたのです。Ω

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