礼拝説教

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます


2023年10月03日

*本文: ローマ書 5章3-4節 3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練(ね)られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

<3節>は「それだけではなく」という言葉で始まりますが、これは義とされた者に加えて与えられる恵みについて話しています。義認がもたらす三つ目の益は何でしょうか。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。」イエス様を信じる人々が得られるもう一つの特権は、いかなる苦難も喜ぶことができるということです。これが真のクリスチャンの姿です。

イエス様は山上の垂訓で「狭い門から入りなさい」と仰いました。[マタ7:13] 狭い門から入りなさい。滅びに至(いた)る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。信じる者は狭い門から入るようにと言われています。それはその歩む道のりに苦難があることを意味します。<使徒の働き14章>を見ます。[使14:22] 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経(へ) なければならない」 と語った。信仰の道は苦難の道であり、この道を歩む クリスチャン には苦難があるのだと パウロ は言います。 なぜなら、悪なる世の中で キリスト の義を現わそうとする人々は必ず苦難を経験するようになるからです。 キリスト教は苦難について正しく教える宗教です。私たちの人生において、ただ神様の祝福だけがあるのだと教えるのであれば、それは正しくありません。 キリスト と使徒の教えは何でしょうか。私たちに試練(しれん) と苦難がやって来るということです。 しかし、信仰者が経験するある苦難は苦難で終わることは決してありません。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」 それは次のような図式で示すことができるでしょう。「苦難→忍耐→練られた品性→希望」信仰者が経験する苦難はただの苦難ではありません。世の人々の苦難はただ苦難で終わってしまうものです。しかし、クリスチャンが経験する苦難は、これほどまでに素晴らしい恵みをもたらすものです。ですから、私たちは喜ぶことができるのです。

「苦難が忍耐を」キリストにある人々の苦難は忍耐を生み出します。忍耐とは、待ち続けることができるということです。[ルカ8:15]しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。種をまくと芽が出て、30倍、60倍、100倍の実が結ばれるまでは忍耐が必要です。「良い地」とは、忍耐をもって実を結ぶ人のことです。パウロは<第一コリント人への手紙13章>で、愛について体系的に説明しました。[Ⅰコリ13:7] すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。パウロはコリントの信徒らに対して、愛はすべてを耐えることだと言いました。ですから、私たちは愛をもって忍耐しなければなりません。[ヤコ1:3-4] あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠(か)けたところのない、成熟した、完全な者となります。使徒ヤコブは、信仰が試されることによって忍耐が生み出され、「あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります」と言いました。<ヤコブの手紙1章12節>を見てみましょう。[ヤコ1:12] 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。パウロとヤコブの二人の使徒が同じことを語りました。「いかなる試練と逆境が来るとしても、それはむしろ私たちを忍耐させ、より良いものをもたらすことになるのだ。それゆえ喜びなさい」と。

私たちが信仰生活において経験する全ての葛藤は、私たちがよく忍耐することができないために生じてしまいます。「信仰が浅い」というのは、よく耐えることができないことを意味します。成熟した信仰と未熟な信仰の差は何でしょうか。成熟した人は苦難を通して忍耐を学びます。神様の主権を信じる人、神様の愛を知る人、神様の予定を知る人は最後まで忍耐することができます。なぜでしょうか。世の形あるものはすべて過ぎ去るとしても、栄光の未来が残されているからです。ですから、私たちはどんなに大変だとしても、よく忍耐して実を結ばなければなりません。

「忍耐が練られた品性を」クリスチャンが経験する試練の深い意味を理解することは極めて重要です。<第一ペテロの手紙4章12-14節>を見てみましょう。[Ⅰペテ4:12-14] 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不信に思ってはいけません。13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。14 もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。<第一ペテロの手紙1章6-7節>も見ましょう。[Ⅰペテ1:6-7] そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。使徒ペテロは、私たちの信仰が精錬された金のようになるとして、私たちを励ましてくれています。私たちが精錬された金のように鍛えられるためには、苦難と忍耐が必要です。純金は精錬の過程を通して生まれます。溶鉱炉の火で全ての不純物を除去した後に、精錬された金が生まれるようになります。

私たちに与えられる苦難は、私たちを精錬された金へと変えるためのものです。鉄は溶鉱炉から取り出され、打ち叩かれる度に強度を増(ま)していきます。同様に、苦難は私たちを鍛え、より強く健康にするためのものなのです。神様が私たちに与えてくださる試練は無駄なものではありません。苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、それによって私たちをより成熟した、強い人間へと作り変えてくださるのです。<へブル人への手紙12章8-11節>を見ましょう。[ヘブ12:8-11] もし、あなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。9 さらに、私たちは肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために私たちをご自分の清(きよ)さにあずからせようとして訓練されるのです。11 すべての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛(きた)えられた人々に義という平安の実を結ばせます。へブル書の記者は、神様による訓練を経験していない人は本当の子ではなく私生児だと言いました。私たちが経験する苦難は、神様が愛する真の子どもに与える試練です。これは私たちを愛しておられる神様が私たちを鍛錬させるためです。

試練に打ち勝った人々は「練られた品性(練達〈新共同訳〉)」を得ます。「練られる(練達される)」とは、私たちを完全にさせるためのものです。それは衣服のこすり洗いのようなものです。衣服がこすられて汚れが全て落ちるように、私たちの品性も、試練の中で練られ、練達されることによって完成へと至るのです。熟していない柿には渋みがありますし、調理されていない魚には臭みが残っています。しかし、苦難に耐える人々は、その過程を通して渋みや臭みが取り除かれていきます。それは苦難と試練を通してなされるのです。それゆえ、苦難と試練は私たちにとって悪いものではありません。「苦しみ尽きて幸福が来る(苦盡甘來, Sweet after bitter)」ということわざがあります。苦い経験の後には、甘美な経験が来るということです。神様が本当に大切にしている人々に最初に与えるものは何でしょうか。それは苦難です。その苦難を通して忍耐を、忍耐を通して練られた品性を私たちの内に作り上げてくださるのです。

「練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」信仰は苦難に耐える力を私たちに与え、訓練の過程を経て、私たちを希望に満ちた未来へと導きます。[ヘブ11:1] さて、信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰は、私たちが望んでいる未来の事柄(ことがら)を現在の現実に変えてくれるものです。そして、信仰はまだ見ぬ事柄を今日に持って来て、自分が見ることのできるものとする力です。それは、未来の事柄を前もって取っておくことだと言えます。[Ⅱコリ4:17] 私たちの一時の軽(かる)い苦難は、それとは比べものにならないほどの重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。未来にある重い永遠の栄光、パウロはこれを「希望」とも「栄光」とも言いました。それは来るべきより良(よ)い世界に関するものです。つまり、未来に対する希望が今日の苦難を飲み込む力となるのです。私がいかなる状況に置(お)かれているとしても、未来の希望と栄光が今日の苦難を飲み込んでしまいます。それゆえ、私たちは喜びと平安の中に生きることができるようになるのです。

パウロには苦難に対する明確な理解がありました。ですから、彼は苦難の中でも決して倒(たお)れることがありませんでした。彼は苦難が二つの益(えき)をもたらすと言います。[Ⅱコリ1:4,6,9] 4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。/ 6 私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。/ 9 実際、私たちは死刑(しけい)の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。第一の益とは何でしょうか。苦難は神様の慰め(comfort)を私たちにもたらします。そして、第二の益は、私たちが神様だけに頼るようになることです。

死者を復活させてくださる神様の驚くべき力を信じる人は、苦難を経験するとしても喜ぶことができるのです。それはなぜでしょうか。苦難は破滅(はめつ)へと導くものではなく、信じる人々を躓(つまづ)かせるものでもないからです。それどころか、苦難は練られた品性を生み出し、その練られた品性が新たな希望を与えてくれるのです。

キリスト教は苦難の宗教だと言えます。確かにキリスト教は祝福の宗教でもありますが、祝福を教える前に、まず苦難を教え、その苦難がもたらす利点を強調します。苦難を愛し、十字架を喜んで背負おうとします。では、苦難がもたらす利点とは何でしょうか。私たちが苦難を経験する中で、私たちの人生に喜びが生じるようになります。これをはっきりと理解する時、私たちは真のクリスチャンになることができます。Ω

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