2023年09月18日
[ローマ書 5:1] こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神と平和を持っています。
「神と平和を持っています。」これが義認が私たちにもたらす最初の恵みです。パウロは、キリストを通して、神様と人間との関係に初めて平和の時代が訪れたことを宣布しています。恵みの時代は他の言葉で言い換えるなら、平和の時代です。かつては私たちは神様の御怒りの下にいた罪人でしたが、今は自由になり平和を得るようになりました。「義と認められた(We have been justified.)」ここは過去完了形になっています。義と認められたことは「すでに」なされたことであり、実際に起こった出来事です。「神と平和を持っています。」ここでは「現在形」が使われています。これは将来だけでなく、今現在、私たちが得ている権勢です。義と認められた結果、私たちは神との平和を持つ権勢を得たということです。ですから私たちはこの平和を享受しなければなりません。
キリストから与えられる平和とは何でしょうか。[ヨハネ14:27] わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなた方は心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。キリストから与えられる平和と世の平和にはどのような違いがあるでしょうか。世の平和は、力によってコントロールされ、支配される抑止力(deterrent)がもたらす平和です。こちらが強大な軍事力を持てば、相手も同等の軍事力を備えて対峙します。そのように力のバランス(Balance of Power)によって維持されるのが世の平和です。しかし、キリストが与える平和は、魂の深い絶望と呻きから自由とされたことによる平和です。自分の力では手に負えない窮状から救われた者が味わうことのできる平和です。
ここに再び「信仰」という言葉が出てきています。私たちを義とするこの信仰とは何でしょうか。強い信仰、弱い信仰と言う時の信仰でしょうか。そうではありません。ギリシャ人は、愛という概念(がいねん)をアガペ(agape、利他的な愛)、エロス(eros、快楽を追求する愛)、フィリア(philia、友情)、ストルゲー(storge、親子の愛)、フィローシャ(philautia,自己愛)に分類しました。このように、一言で愛と言っても様々な愛があるように、信仰もすべてが同じ信仰ではありません。パウロは信仰とは何かということについて、<ローマ書1〜4章>を通して説明しました。信仰は恵みを受け入れるチャンネルであり、通路です。信仰は恵みを受け入れる道ですが、逆に言えば、私たちが恵みの世界へと入る道でもあります。信仰は恵みに入る道を見出すことを可能にします。これが信仰と恵みの神秘的な世界です。そして信仰は私たちと神様との親密(しんみつ)で堅固(けんご )な関係を維持(いじ)してくれるのです。
では、ここで言う恵みとは何でしょうか。「このキリストによって」この恵みは誰によってもたらされたものでしょうか。すべて主が行われた御業(みわざ)によるものです。パウロがローマ書で絶(た)えず説明している恵みは、イエス様が私たちのために死なれたということです。[ロマ5:8]しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明(あき)らかにしておられます。信仰は主が行われた驚くべき御業、その恵みを私が受け入れることです。しかし、ある人はその恵みを受け入れますが、他のある人は受け入れません。これをパウロは不信仰の神秘(Mystery of Unfaith)と表現しました。「なぜそれを信じないのだろうか、実に不思議な事だ」ということです。主の先行的(せんこうてき)恩寵(おんちょう)(Prevenient Grace)という言葉があります。それは、他の人々には聞こえないものが私には聞こえ、他の人々には信じることができないものを私は信じるようになったということです。それは確かに主の恵みだと言えます。
[ローマ書 5:2] このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
「この恵みに導き入れられました。」これは義認がもたらす二つ目の恵みです。これはまるで、王によって追放された臣下が、その罪を許され、再び王の前に出ていくことができるようになったという、ドラマのワンシーン(one scene)のようです。それは、私たちが宮廷において王の席の前に立つようなものです。かつて私たちは罪に抑えつけられ、牢屋の隅でうずくまっていました。しかし、今や罪人が義人とされ、義の衣を身にまとって、宮廷におられる神様に謁見(えっけん)する時をわくわくしながら待っています。また別の絵を描いてみますと、私たちの人生が罪という荒波にもまれながら、精(せい)も根も尽き果てた状態にありましたが、まるで子供が母親の温かい懐に戻るかのようにして、私たちは穏やかな港へ戻るようになったのです。これが義とされた者たちの姿であり権勢です。
「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」ですから、義とされたクリスチャンの人生には感激があります。その感激は、神様との和解によってもたらされたものです。神様の慈悲(じひ)によって私たちの魂に平和が臨むようになりました。「喜びなさい(Rejoice)!」<ローマ書5章>でパウロはこれを強調します。救いは主からの驚くべきプレゼントです。このプレゼントを受けて喜ばない人がいるとすれば、よほどひねくれた人ではないでしょうか。すでに戦争は終わりました。私たちはこれ以上死に対する恐怖(きょうふ)を感じる理由がなく、戦いに挑(いど)む理由もなく、敵に追われる理由もありません。すでに平和が訪(おとず)れました。「平和を受け取りなさい!喜びなさい!」これを味わうことが出来ないのであれば、非常に深刻(しんこく)な問題です。
出エジプト記に記録されているように、イスラエルの民がエジプトを脱出(だっしゅつ)し、荒野(あらの)へと逃げる中で、葦(あし)の海が彼らの前に立ちはだかりました。その時、モーセが信仰によって葦(あし)の海を分け、イスラエルの民は乾(かわ)いた地の上を渡ることができました。彼らを追(お)いかけていたエジプトの兵士たちはみな海に飲み込まれてしまいました。そして、無事に葦の海を渡りきった時に、ミリアムが歌いました。救(すく)われた人々は生きながらえたことのゆえに、喜びと感謝の賛美を捧げました。ここで重要なことは、エジプトの兵士たちは葦の海を渡った人をそれ以上追跡することはできないということです。彼らは一人残らず葦の海に飲み込まれてしまったからです。にもかかわらず、私たちが依然(いぜん)としてエジプト兵の追跡を恐れているのだとしたら、それは不健全(ふけんぜん)な姿ではありませんか?このように、私たちがすでに義人となったのに、相も変わらず自分が罪人だという思いに囚(とら)われ、救われたことを疑(うたが)う人々がいます。心理的に見ますと、彼らは罪責感のゆえに苦しんでいます。主が私たちの罪の負債(ふさい)をすべて無くしてくださいました。これが義認です。義認とは、私たちが法的に無罪を宣告されたということを意味する法廷用語です。ですから、もはやそれ以上、過去に犯した罪に対する罪責感や恐れを抱く必要がないのです。
[ヨハ13:10] イエスは彼に言われた。「水浴(すいよく)した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」私たちが全身を洗うことと、足を洗うこととを正確に区別して理解しなければなりません。イエス様がペテロに向かって「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません」と仰いました。もちろん自分の足で犯した罪はいつも洗う必要がありますが、根本的な問題はすでに解決されました。再び義と認められ、救いを受ける必要はないのです。キリストの十字架の贖いとその恵みによって、私たちの全身がすでに清(きよ)められました。私たちの魂の罪責(ざいせき)が根本的になくなりました。イエス様は「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、すでにきよいのです」(ヨハ15:3)と仰いました。私たちは御言葉によってすでに清められたのです。
結婚という人生のターニングポイントを迎(むか)える時、私たちは全く新しい人間関係を築(きず)き、その関係性の中で生きて行くことになります。信仰も同じです。私たちが信仰を持つということは、新しい関係性の中で生きて行くことを意味します。そのターニングポイントこそが、「信仰によって」です。私たちは信仰によって生きて行く人に変わりました。このターニングポイントを明確にする必要があります。私たちの信仰における決断(けつだん)と回心(えしん)(転換(てんかん))についてはっきりと確定させておくことが重要です。私の信仰が確定された日が、すなわち私の霊的な誕生日です。 私の個人的な救いと歴史の救いに対する確信とをもって、決断し、回心の一日を迎えるのです。もちろんある人は「信仰が確定されたといっても、昨日と今日で、何か大きな違いがあるように感じられない」と言うかも知れません。そのように感じることもあるかもしれません。ある人はこう言いました。「私はクリスチャンですが、そのような体験はありませんでした。私の隣にいた人は、御言葉を聞きながら、救いの喜びに満たされて涙を流(なが)していました。彼女にとっての信仰のターニングポイントは誰の目にも明らかでしたが、私にはそのような経験がありませんでした。」イエス様はニコデモとの対話で次のように仰いました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」(ヨハ3:8)。ある人々は自分の信仰の出発点(しゅっぱつてん)がどこにあったのかが分かりません。しかし、それでもその人にとっての出発点は確かにあるのです。
私たちの信仰において、いまだに過去の記憶と罪責感による恐れに囚(とら)われている理由は、救いに対する確信がないからであり、ターニングポイントが明確でないからです。そのため、メンバーシップカードに署名することが重要です。大きな建物の所有権は、契約書に署名した瞬間に譲渡(じょうと)されます。メンバーシップカードも、同様の意味で私たちの信仰において重要なものです。それは「霊的に私は主のもの(主に属(ぞく)する者)です」という契約書に署名するようなものです。これにより契約が確定され、完了したことになります。私たちの帳簿の精算がすでに終わりました。これから私たちに残されているのは、足を洗うことだけです。聖化の過程を忠実に歩みさえすればよいのです。その過程の中でたとえ罪を犯すことがあるとしても、それによって私たちの救いが無効になることはありません。
[ヨハ15:11] わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。私たちが主のこの御言葉を覚えましょう。主の喜びは愛の喜びです。私たちがキリストの愛を通して、私たちの魂に平和を得るようになりました。/ [詩42:5] わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。救われた人々の中に喜びがあります。/ [ヨハ16:22] あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。使徒の中にある喜びは誰も奪い去ることができません。<ローマ書5章>の最初の二節でパウロが描いているのは、勝利の冠(かん)を頂(いただ)いた者が群衆の歓喜の中を行進することです。「味わおう。私たちに与えられたこの平和を味わおう。この権勢を味わおう!」Ω