2023年09月06日
“罪を覆われた者は幸いだ”
*本文: ローマ書 4章4-8節
[ローマ書 4:4-5] 働く者の場合に、その報酬が恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
働く者はその報酬を恵みと思わず、借金(当然支払うべきもの)とみなします。今日私が働いたならば、当然、雇用主は私に賃金を支払う必要があります。ユダヤ人は、行いによる「功労信仰」を重視していたので、この概念をすぐに理解することができたでしょう。パウロは<ローマ書11章>で次のように言いました。[ローマ11:35] だれがまず主に与えて、主から報いを受けるのですか。これは、先に主に何かをささげたという理由で、主から報いを受け取った者など一人もいない、ということです。「私は神様に良いものをささげた。だから、私には神様から良いものを受け取る権利がある。」そのように考えることはできないのです。
<ルカの福音書>において、イエス様が教えてくださった例(たと)えを見てみましょう。[ルカ17:7-10]7 あなたがたのだれかのところに、畑を耕(たがや)すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。8 むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」しもべが熱心に仕事を頑張ったからといって、「私が熱心に仕事をしてきましたので、私に食事を用意してください」と言えるでしょうか。ここで主は、私たちがどのような姿勢と心で神様の御前に出ていくべきかを教えておられます。これは、イエス様ご自身の人生に対する姿勢でもあります。しかし、ユダヤ人はこのような心を持つことができませんでした。それゆえ、彼らは神様の恵みを味わうこともできなかったのです。
<マタイの福音書20章>の「ブドウ園のたとえ」を見てみましょう。これは、一日中働いた人と、5時になってやってきた人の話です。一日中働いた者は一デナリをもらい、5時に来た者も同額の賃金をもらいました。なぜ、遅れてきた人も同じ1デナリを受け取ったのでしょうか。仕事をせずに報酬をもらうようになったのは、主人の驚くべき恵みによるものではありませんか?イエス様は実に画期的な例えを通して、働かなかった者が受けた恵みについて教えられたのです。
ユダヤ人にとって大切な書である創世記に、ヨセフの物語があります。ヨセフは11番目の息子でした。父親であるヤコブは、袖付きの長服を彼に着せました。本来なら、長男(ちょうなん)に与えられるはずの長服を、ヨセフが着ることができた理由は何でしょうか。彼は長男ではありませんでした。また、資格(しかく)や功労があったわけでもありません。それはただ父親の限りない愛と恵みによるものでした。
<マタイの福音書9章>を見ると、パリサイ人と取税人の話が記録されています。取税人はイエス様の弟子になることができましたが、パリサイ人はイエス様の弟子になれませんでした。それは、パリサイ人が自分を正しい人間だと思い込んでいたからであり、その独善的(どくぜんてき)な心のゆえに、神様の前に義と認められなかったのです。それに対して、<ルカの福音書18章>には、取税人が胸を打(う)ちながら悔い改めたことが記されています。これはおそらくマタイの話でしょう。彼はこう祈ったに違いありません。「私はこのように生きてきて、このような罪人ですが、神様、私の罪を憐(あわ)れんでくださり、赦してください!」と。その結果、マタイは神様の憐(あわ)れみを知り、主の弟子となったのです。私たちは、どんな時に信仰の危機に陥(おちい)るのでしょうか。自分の行いや功績が、神様の恵みよりも優先(ゆうせん)される時です。それらの行為や功徳のことをパウロ独特の象徴的な言葉で言うならば、「肉」です。パウロは「神様の前に肉を誇ることのできる者はいない」と言っているのです。誰も誇ることはできません。たとえ大統領/首相/内閣総理大臣であるとしても、教会に来るなら、一人の罪人です。たとえ王がここに来たとしても、罪人なのです。このことを認める時、私たちは本当の意味で神様の憐れみと愛と恵みを受け取ることができるのです。
パウロの信仰的な姿勢がどのようなものであったのか、<ピリピ人への手紙3章>を見てみましょう。[ピリピ3:5-9]5 私は八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。パウロは、自分の功績も、自分が誇りに思っていたことも、すべて無益なものであったと言いました。パウロはパリサイ人の中のパリサイ人であり、筋金入りの信仰者でした。しかし、ここで彼は、それら全てを損失と考えるようになったと言いました。なぜでしょうか。それは、そういったものが誇りになる時、神様の愛が見えなくなるからです。ここでパウロは、自分が神様の憐れみと愛によって立てられたことを証ししました。
[ローマ書 4:6-8] 6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8 主が罪を認めない人は幸いである。」
これは<詩篇32篇1-2節>を引用したものです。[詩篇32:1-2] 1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺(あざむ)きのない人は。これはダビデの偉大な詩です。ユダヤ人たちはこの詩をよく知っていたに違いありません。この詩はダビデの告白でした。ダビデが王になった後、大きな罪を犯した事件がありました。彼は自分の臣下(しんか)であったウリヤの妻、バテ・シェバを奪い取りました。ウリヤを戦闘に送って殺すという陰謀を企て、彼の妻を奪ったのでした。ダビデはそのように重い罪を犯しました。しかし、ダビデが自らの罪を認め、深く悔い改めた時、神様はその罪を赦されました。[Ⅱサムエル12:13] ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過(みす)ごしてくださった。あなたは死なない。」ダビデは死罪(しざい)に値(あたい)する重い罪を犯したのですが、彼は死ぬことはありませんでした。その時彼が経験した恵みを詩として表現したのが、<詩篇32篇1-2節>です。[詩編32:1-2] 幸いなことよ。そのそむきを赦(ゆる)され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎(とが)をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。ダビデは「罪を赦された者は幸いだ」と言いました。タビデは罪を犯しましたが、その罪を覆(おお)われ、罪に問われない者となりました。パウロは、ダビデのこの言葉を引用しました。「あなたがたの王ダビデがそう言ったのではないか。これは神様が人類にお与えになった驚くべき恵みではないか。」神様はこのように人類に接してこられたのです。キリストの驚くべき死と十字架の贖(あがな)いは、私たちに対する神様の愛の確証だったのです。私たちを罪人とは見なさず、むしろ私たちの罪を覆ってくださり、赦してくださったこの恵みの出来事が、ダビデが経験したのと同じ出来事であったと証ししているのです。それゆえ、この恵みは彼らにとって馴染(なじ)みのないものではない、とパウロは言ったのです。
「罪を覆われる」とはどういうことでしょうか。例えば、子供が野球をしている時に窓ガラスを割ったとしましょう。家主(やぬし)が飛び出してきて、「一体、誰がやったんだ!」と大声で怒鳴りました。あまりに怖かったのか、その子は隅っこにしゃがみこんでしまいました。そこへ、その子の母親(ははおや)がやって来て、その子をスカートで覆い、「心配しないで。私が弁償するから」と言ってやりました。これが罪を覆うということです。他の表現で言うなら、これは罪の転嫁です。自分が犯した罪を母親に転嫁することです。
商業的に言えば、罪は借金のようなものです。返(かえ)せない借金があるのですが、その借金を他の誰かが代わりに返済してあげること。それが転嫁です。主はその驚くべき愛のゆえに、私たちの負債をご自分のものとしてくださったのです。それは「この帳簿にあるあなたの負債を全て私の負債として記入しなさい。それを私に請求しなさい」と言うことと同じです。罪を覆うということは、負債を転嫁する、負わせるということです。だからもはや、私には借金がありません。何がこれを可能にしたのでしょうか?主の義によって、主の贖いの死によって、そして主の愛によってです。しかし、負債(ふさい)が全て移されたにもかかわらず、もしまだ自分が負債者であると思い続けているとしたら、主はどんなに悲しむことでしょうか。私たちがしっかりと心に留めておくべきことがあります。それは、私たちの罪はすでに覆われた、ということです。ダビデは「罪を覆われた者は幸いだ」と言いました。これこそ、イエス・キリストを通して、私たちに起こったことなのです。この驚くべき出来事が確かに私たちに起こったのです。Ω