2023年08月29日
“福音は律法を確立することです”
*日時: 2023年 8月27日, 主日礼拝
*場所: 福岡アガぺ長老教会
*說敎: ジャンサムエル 牧師
*本文: ローマ書 3章27-31節
[ローマ書 3:27-28] 27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除(のぞ)かれました。どのような種類(しゅるい)の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。28 人は律法の行いとは関(かか)わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。
パウロは3章の終わりに、信仰の論争になり得る最(もっと)も重要な主題を要約しました。論争(ろんそう)の焦点(しょうてん)は「私たちは何によって義と認められたのか」です。パウロは、神様の御前において罪人は自らの功績(こうせき)と行いによっては義と認められないため、私たちに誇(ほこ)るものは何もないと強調(きょうちょう)しました。罪人が神様との正しい関係を築(きず)き、御前に正しく立つことができるのは、ただイエスの血によってのみです。私たちがまだ罪人であった時、罪のないキリストの贖いの死を通して、私たちが義と認められるようになったのです。この福音が伝播されるところならどこにおいても挑戦(ちょうせん)を仕掛(しか)けてくる勢力(せいりょく)があります。それは、福音に他の何かを付け加(くわ)えようとする人々です。
プロテスタントの基本原則(げんそく)は三つです。それは、「ただ信仰のみ(Sola Fide )」、「ただ恵みのみ(Sola Gratia )」、「ただ聖書のみ(Sola Scriptura)」です。その中でも「ただ恵みのみ」が最も重要です。信仰が最初に置(お)かれている理由は、それが私たちにとって重要な恵みをもたらす通路であるからです。ところが、ここに人間の功労(こうろう)や行いを取り込(こ)もうとしたことによって、救済論(きゅうさいろん)を巡(めぐ)って深刻な混乱が生じるようになりました。それがのちの宗教改革(かいかく)の引き金となりました。ローマカトリック教会は、「煉獄(れんごく)」の教理を混入(こんにゅう)させ、聖地巡礼(じゅんれい)や献金といった種々(しゅじゅ)の行いによる救いを主張しました。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。クリスチャン家庭に生まれて、幼児(ようじ)洗礼(せんれい)を受けたことで自分は当然救われたものだと考えることで、人々の信仰にモラルハザードが生じたのです。そこには信仰への情熱も、善行を行おうとする努力もありません。それゆえ種々の行いや儀式を取り込(こ)むことで、信仰的なハザード(危険)を防止(ぼうし)しようとしたのです。
しかし、私たちが神様の御前に義と認められる唯一の道、罪から解放されて自由に至(いた)る唯一の道は「全的な神様の恵みによってのみ」です。教会の堕落は、恵みを薄(うす)めることからやって来ます。つまり、他のものを付け加(くわ)えることによって愛のメッセージを希釈(きしゃく)するということです。他の救いの手段(しゅだん)を取り入れることによって、福音理解に深刻な混乱を生じさせたのです。「ただ義人は信仰によって生きる」と言いました。教会の腐敗(ふはい)と逸脱(いつだつ)は救済論的問題から起こります。その代表的な例が、ローマカトリック教会の免罪(めんざい)符(ふ)事件です。サンピエトロ大聖堂の建築(けんちく)に多額(たがく)の費用(ひよう)が必要だったため、あちこちの教区から献金を受けました。教会に献金することは、それ自体どれだけ(どれほど)崇高(すうこう)で聖なる行いでしょうか。しかし問題は、献金の見返(みかえ)りとして、罪の赦しを約束する「免罪符」を与えたことです。どうして罪を免(めん)ずる権能が、人が作った免罪符にあるでしょうか。彼らは殊(こと)更(さら)に罪を強調(きょうちょう)して、免罪符を売り続けることで、聖堂建築の費用を賄(まかな)おうとしたのです。そのため、免罪符を持つ人が溢(あふ)れ返(かえ)りました。しかし、最大の悲劇(ひげき)は、貧しい人々がその免罪符を市場で売り始めたことでした。この問題は、本質的には聖母(せいぼ)マリア崇拝(すうはい)や他の霊的仲介者(ちゅうかいしゃ)の崇拝と同じで、多くの非聖書的なものを付け加(くわ)えようとしたことでした。救いに至(いた)る道が「ただ聖書のみ」ではなく「聖書+伝統(でんとう)」になったのです。
私たちは、ガラテヤ書を勉強しました。ガラテヤにおける論争とはどのようなものでしたか。多くのユダヤ人が福音を受け入れ、救われるようになりました。ところが、教会に異邦人が加(くわ)えられていく中で論争が始まりました。「異邦人はどのようにして救われるのか」。これが論争の核心(かくしん)でした。パウロは「割礼(かつれい)のない救い」について語りました。救いに至(いた)る道は「ただ恵みによってのみ」ということです。律法は、行いによって私が義と認められるのだと言います。あるユダヤ教の一派(いっぱ)は、善行には報(むく)いが確約(かくやく)されていると考え、自らの善行を細大(さいだい)漏(も)らさず記録したといいます。十年もすれば、善行リストの束(たば)がどれほど出来上(あ)がっていることでしょうか。それは神様を借金(しゃっきん)取りに仕立(した)てることです。しかし、福音が宣布(せんぷ)されるところでは、そこに律法が入(はい)り込む余地(よち)はありません。救いに至る道は、私たちが罪人であるにもかかわらず、私を赦され、友としてくださった主の恵みのみです。罪の衣(ころも)を脱がせ、義の輝く衣を着(き)せてくださる神様の愛の恩寵(おんちょう)によってのみです。そこに他(た)の行いや功労信仰が入(はい)って来る時、その恵みが薄(うす)められてしまいます。パウロがガラテヤ書であれほど強く反論した理由はそこにありました。
<ガラテヤ2章>では、パウロが教会の頭であるペテロを非難した出来事がありました。「11 ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議(こうぎ)しました。12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派(かつれいは)の人々を恐れて異邦人から身(み)を引き、離れて行ったからです。13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心(ほんしん)を偽(いつわ)った行動(こうどう)をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。14 彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前(めんぜん)でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強(し)いるのですか」(ガラテヤ2:11-14)。ペテロとバルナバが異邦人と一緒に食事をしていました。その食卓の交わりがどれほど恵みに満ちていたことでしょうか。ところが、ヤコブとエルサレムの使徒たちがやって来るなり、ペテロは異邦人との交わりを恥じて、そそくさと退席したのです。
パウロはペテロのその逸脱(いつだつ)した信仰の姿を批判しました。 「あなたがたは御霊(みたま)で始まって肉によって完成されるというのですか。あなたがたの行いや割礼のゆえに、律法をよく守ることによって、御霊を受けるようになったのですか。それとも恵みによってですか。当然、恵みによってでしょう」。パウロはそう言いながら、論争を繰(く)り広げたのです。信仰の腐敗は、神様の恵みを私たちの行いと功労に置き換えようとするところから始まります。ある人々は、救いは「神様の恵み+私たちの功労」だと考えても良いではないかと言います。しかし、パウロは、そのような信仰の危険性を弁(わきま)えていました。それゆえ、「私たちには誇るものがない」と宣言したのです。皆さんも信仰生活をすればするほど、「義と認められることは行いによるものではない」ことを悟るようになるでしょう。ですから、より一層(いっそう)、神様の恵みを慕(した)い求(もと)めるようになるのです。
[ローマ書 3:29-30] 29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。30 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです」
神様はユダヤ人だけの神様でしょうか?そうではありません。割礼を受けた者だけが救われるということは、誰もがユダヤ人になってはじめて救(すく)われることを意味します。パウロは<ローマ書1〜3章>にかけて、救いには差別がないということを続けて語りました。神様の御前では、誰もがみな同じです。権力(けんりょく)を持つ者であれ、持たない者であれ、みな同じなのです。これが教会の真(しん)の美しさです。私の知人にある有名な神学大学の教授(きょうじゅ)がいますが、元米国(もとべいこく)大統領が彼の教会の信徒だったそうです。この教授の隣に座っていた人が、大統領が毎週教会の主日に出席していたのか尋ねてきたそうです。すると、その教授が「もちろんですとも。彼は毎週出席し、それも同じ席に座って礼拝を捧げていましたよ」と答えました。その大統領は、共産主義陣営(じんえい)との対決(たいけつ)において獅子奮迅(ししふんじん)の働きをした人物でした。ところが、教会に来ると、彼はいつも夫人(ふじん)と一緒に同じ席に座り、羊のように御言葉をよく聞いていたといいます。教授は、大統領のその謙遜(けんそん)な姿勢(しせい)に挑戦(ちょうせん)を受けたと言っていました。
主の御前においては一切の差別がありません。より多くのお金も、より高い権威(けんい)も、彼を神様に近づけることはできません。行いや功労、その他(た)いかなるものであっても、救いの手段(しゅだん)にはなり得(え)ません。キリスト教の福音は、誰もが神様の御前に等(ひと)しい距離(きょり)にあることを語っています。<使徒の働き2章>の御言葉のように、老(お)いも若(わか)きも、男性も女性も、奴隷(どれい)もそうでない者も、そこに差別はありません。ユダヤ人たちは選民としての聖性(せいせい)と誇りをはき違(ちが)えてしまい、特権(とっけん)意識(いしき)に溺(おぼ)れ、異邦人を差別しました。しかし、聖霊の驚くべき時代、恵みの時代においては、すべての差別は撤廃(てっぱい)されます。神様と人間の間にあった隔(へだ)ての壁が取り壊(こわ)されました。キリストの驚くべき贖いの力が、それら全てを取り払ってし まったのです。
<エペソ2章>を見ましょう。 「そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外(じょがい)され、約束の契約(けいやく)については他国人(たこくじん)で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」(エペソ 2:12)/ 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔(へだ)ての壁である敵意(てきい)を打ち壊(こわ)し」(エペソ 2:14) / 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解(わかい)させ、敵意を十字架によって滅(ほろ)ぼされました」(エペソ 2:16) / このキリストにあって、建物の全体が組(く)み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築(きず)き上げられ、御霊によって神の御住(おす)まいとなるのです」(エペソ 2:21,22)。
パウロは神殿(しんでん)建築(けんちく)の壮大(そうだい)な絵を描(か)きながら、キリストが十字架によって隔(へだ)ての壁を消滅(しょうめつ)させたと述(の)べています。十字架のその愛の力が、ユダヤ人と異邦人の間の越(こ)えることのできなかった隔(へだ)ての壁を取り壊(こわ)したということです。そうして、人の手によってではなく、聖霊によって美しい神殿が建て上げられていくのです。ユダヤ人と異邦人が和解し、差別のない美しい世界が、この立派な神殿を通して明(あき)らかにされることでしょう。
神様は、ユダヤ人だけの神様ではありません。福音は、全人類と世界のための福音です。<使徒の働き2章>においても、差別なく全ての人に降(ふ)り注(そそ)がれる神様の恵みについて語られています。「17 神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」(使徒2:17-18)。差別のない驚くべき世界です。
[ローマ書 3:31] それでは、私たちは信仰によって律法を無効(むこう)にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立(かくりつ)することになります。
「割礼のないキリスト教」、これは非常に挑戦的な言葉です。ところが、ただ恵みだけを強調(きょうちょう)する時、福音が律法を廃棄(はいき)するものではないかと尋(たず)ねて来ます。神様の律法をよく守って生きようとする努力が不要(ふよう)だということでしょうか。そのような行いがなくなるべきだということでしょうか。決してそうではありません。パウロは「かえって、律法をより堅(かた)く立てることになる」と語りました。福音が伝播されるところでは、こういった誤解が生じ得(え)ます。一切の行ないや努力が不要なのかという混沌(こんとん)が生じます。
初代(しょだい)教会の使徒ヤコブは「行いのない信仰は死んだ信仰である」と語り、そのバランスを保持(ほじ)しようと努(つと)めました。彼はラクダの膝(ひざ)というニックネームがつくほどに、多くの祈りを捧げた人物です。恵みを強調する人は、行いを強調するヤコブ書を読んではならないと言います。それでその本を「藁(わら)の書簡(しょかん)」と呼ぶ者さえいた程(ほど)です。
ところが、恵みによって生きる人々が、人としての義務(ぎむ)を放棄(ほうき)し、忌(い)まわしい悪事(あくじ)を重(かさ)ねるなら、世から軽蔑(けいべつ)を受けるしかありません。パウロは、律法廃棄論者ではありません。 「律法を無効(むこう)にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります」。「ただ恵みによって」生きる人生が律法を無効にすることは決してありません。むしろ私たちが律法を確立する時、偉大な御霊の力が現(あらわ)れ、多くの人々の称賛(しょうさん)を受ける教会になることができるでしょう。Ω