2023年08月22日
“キリスト・イエスによる贖い”
*日時: 2023年 8月20日, 主日礼拝
*場所: 福岡アガぺ長老教会
*說敎: ジャンサムエル 牧師
*本文: ローマ書 3章24-25節
[ローマ書 3:24] 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して、価(あたい)なしに義と認められるからです。
キリスト・イエスの無条件(むじょうけん)の憐(あわ)れみと愛の世界はあまりにも素晴らしいものです。<24-25節>で、パウロは手紙の読み手(読者)がよく理解できるように、優(すぐ)れた類比(るいひ)を用(もち)いて神様の救いを完璧(かんぺき)に説明しました。ユダヤ人は人類を2つに大別しました。一方はユダヤ人で、もう一方は異邦人でした。しかし、パウロは異邦人をさらに2つのグループに分けました。それらはギリシャ人(知識人(ちしきじん))と野蛮人(やばんじん)(知識のない者)でした。「私は、ギリシア人にも未開(みかい)の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負(お)い目のある者です」(ローマ1:14)。これらの3つのカテゴリーに全人類が含まれていました。そこでパウロは3つの比喩を用(もち)いました。<24節>において、彼は異邦人がよく理解できる2つの比喩(ひゆ)を最初に提示(ていじ)し、<25節>では、ユダヤ人がよく理解できる比喩を用(もち)いたのです。
第一の比喩(ひゆ)は、異邦人のための「奴隷市場の比喩」でした。 「贖(あがな)いを通して」 「贖い(Redemption )」という言葉は商業用語(しょうぎょうようご)でした。その当時、奴隷(どれい)市場(しじょう)はよく見られるものであったため、人々はこの商業的説明を容易に理解することができました。奴隷は一生奴隷として生きるしかありませんでした。しかし、主はご自身の血によって代価(だいか)を支払(しはら)い(使徒20:28、1コリント7:23)、奴隷を贖(あがな)ってくださり、自由を得(え)させてくだったのです(ガラテヤ5:1)。そのようにして私たちは全(まった)く何の値(あたい)もなしに解放(かいほう)されました。私たちが罪の代価を支払うことではなく、贈り物のような恵みによって義とされるようになったのです。
第二の比喩は、法律を重(おも)んじたギリシャ人(グレコロマン文化圏の「知識人」)のための「法廷(ほうてい)の比喩」でした。 「義と認(みと)められる」という言葉は法廷用語でした。法廷において、裁判官が法に基(もと)づいて無罪という最終判決を下したのです(ローマ3:20、24、26、28、30、4:5、25、5:9、6:7、8:30、33)。裁(さい)判官(ばんかん)がこの判決(はんけつ)を下(くだ)した瞬間から、もはや誰もその人を罪人であると非難することはできません。裁判官である主が私たちの無罪(むざい)を宣言してくださったことで、私たちは義とされたのです。
[ローマ書 3:25] 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥(なだ)めのささげ物として公(おおやけ)に示(しめ)されました。ご自分の義を明(あき)らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃(みのが)してこられたのです。
パウロが使用した第三の比喩は、「祭祀(さいし)の比喩」です。これは常(つね)に犠牲を捧げてきたユダヤ人のためのものです。ここで使われている「なだめの供(そな)え物(Propitiation)」という言葉は、祭祀用語(さいしようご)です。ユダヤ人は毎年罪のいけにえ(生け贄·牲·犠)をささげました。贖罪(しょくざい)のための子羊の血とその死を通して、彼らの罪が赦されるようになりました。ですから、たとえ私が不義であっても、犠牲によって義とされるのです。イエス・キリストが血を流され、私たちのための犠牲となられたことにより、私たちは罪を赦されました。パウロは、これら3つの驚くべき比喩を通して、私たちをより深い救いの世界へと導きます。この2つの節(24-25節)は非常に重要な箇所です。これを通して、偉大な使徒は、あまりにも尊く、深遠な贖いの真理を私たちに解(と)き明かしてくれています。特に、福音理解において<25節>以上に重要な節はありません。
「血による」 という言葉を、私たちが注意深く見る必要があります。私たちはイエスの血によって義とされました。パウロは、イエス・キリストが私たちの代わりに罰(ばっ)せられたことによって、私たちが義とされたのだと証言しています。神学的に「刑罰(けいばつ)代償説(だいしょうせつ)(Penal Substitution Theory )」または「代理(だいり)刑罰説(けいばつせつ)(Vicarious Punishment Theory )」とされているものです。
すべて人間は死んで地獄に落ち、罰(ばつ)を受けるしかない存在でしたが、主が私たちの代(か)わりに罰(ばっ)せられ、命の道を私たちに開(ひら)いてくださいました。アダムを通して全人類が罪人になりました。しかし、新しいアダムであるキリストが罪の連鎖(れんさ)を断ち切り、これを覆(くつがえ)して新しい光明(こうみょう)の歴史を開いてくださったのです。イエス様がこの罪の連鎖(れんさ)を断ち切り、すべてを逆転(ぎゃくてん)させてくださったということを私たちは知らなければなりません。皆さんはこのことを信じますか?<ヨハネ1章>では、信じる人々には、神の子供となる特権(とっけん)が与えられると言っています。 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:12-13)。
イエスの名を受け入れた人々は「神の子どもとなる」のです。したがって、キリストによって新(あら)たな命の歴史、そして神の御国が始まったということを知って、それを信じることが重要です。主はすでに勝利なさいました。そして、キリストを信じる人々には、神の子とされる特権が与えられるのです。これがまさに代表理論です。
救済論(きゅうさいろん)の核心は「信仰による義認(ぎにん)」です。私たちは信仰によって義とされるのです。信仰とは恵みを受け取る通路です。今を生きる私たちが二千年前に起こった出来事の恵みに預(あず)かるためには、信仰が必要とされます。つまり、キリストが宇宙的な罪の連鎖(れんさ)を断ち切り、全人類に自由と解放をもたらした勝利の出来事を信じることです。使徒パウロとマルティン・ルターは、誰もがサタンの宇宙的なくびきの下で罪の奴隷になったと強調(きょうちょう)しました。しかし、イエス・キリストを通して、新しい世界が到来(とうらい)しました。主はすでに勝利されました。これは宇宙的な勝利です。神様と人間は敵対(てきたい)関係にありましたが、十字架によって和解(わかい)が成(な)し遂(と)げられたのです。この和解は具体的にはどのようにして実現したのでしょうか。キリストが「なだめの供(そな)え物」として死んでくださったことによってです。十字架上で流(なが)された「その血によって」、神様と人間が和解するようになりました。「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」(ローマ5:10)。キリストを通して和解が成(な)し遂(と)げられたことで、贖(あがな)いによる救いが実現(じつげん)したのです。したがって、贖罪論(しょくざいろん)は即(すなわ)ち「和解論」です。
<ローマ書5章9節は3章25節>の注解となっています。 「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」(ローマ5:9)。キリストの血によって「神の怒りから救われる」と言っています。この「怒り」は裁きの怒りです。なぜ私たちは神の怒りの下にあるのでしょうか。<ローマ書1章>で、死に値(あたい)する罪についてはすでに見てきました。私たちが罪を見る時に、まず最初に知るべきなのは不敬虔(godlessness)の罪です。それは神様と私の関係が破壊されることです。被造物である人間が、創造主であられる神様を拒絶(きょぜつ)し、敵対する立場にあるならば、私たちは当然のこととして、死によって罰せられるしかありません。罪人である私たちは、神様の怒りの下で生きるしかないのです。しかし、イエスの血がその怒りから私たちを救い出してくださいました。
キリスト教の教理(きょうり)の中で、理解が最(もっと)も困難なのは、「イエスを受け入れなければ裁かれる」というものです。未信者は次のように尋(たず)ねてきます。「私がそれを受け入れようと受け入れまいと、私の自由です。なぜそのことで裁きを受けなければならないのですか?」それは人間が神様から離れることによって「死んだ」という事実を彼らが知らないからです。全ての人間は罪の下に置(お)かれており、滅(ほろ)ぼされるしかありません。人間は破滅(はめつ)の淵(ふち)に向かって、その絶壁(ぜっぺき)に向かって前進(ぜんしん)しているのです。<伝道者の書12章>を見ると、銀(ぎん)のひもが切れ、金(きん)の器(き)が打ち砕(くだ)かれるなら、世の全ての栄光、栄華(えいが)からも完全に断ち切られる、ということが記(しる)されています。どのような楽しみも、喜びも残されていません。「人間には、一度死ぬことと死後(しご)にさばきを受けることが定(さだ)まっている」のです(ヘブル9:27)。誰もが死後の裁きを経験することになります。人類は死の陰の下にあり、神様の怒りの下に置かれているのです。これが動かし難(がた)い罪人の現実であり、立場なのです。しかし、神様はこの世をこの上なく愛しておられたため、ご自身のひとり子をお与えになりました。
たとえ人間が自ら神様を裏切り、戒(いまし)めを破(やぶ)って神様から一方的に離れたとしても、それでも神様は私たちを愛され、ひとり子を与えてくださり、信じる者には誰でも永遠の命を持つことができるようにしてくださったのです。私たちの罪を何一つ問うことなく、私たちの罪を赦し、私たちを受け入れてくださるその愛によってのみ、私たちは救われるのです。ですから、救いは私たちからではなく、神様から来るものです。私たちが信じると言う時、それは何を信じることでしょうか。神様が私たちの罪を赦され、私たちを受け入れてくださったことを信じ、受け入れることです。神様の愛を拒(こば)み、その愛に背を向けることは、神様にいっそう深い痛みと傷(きず)を与えることになります。神様が栄光の立場に再び回復される道を切り開(ひら)いてくださいました。しかし、私たちがそれを受け入れないのであれば、私たちを待ち受けるのは破壊(はかい)と死のみです。Ω