2023年07月26日
“神様が律法を与えた理由”
*日時: 2023年 7月23日, 主日礼拝
*場所: 福岡アガぺ長老教会
*說敎: ジャンサムエル 牧師
*本文: ローマ書 3章10-20節
[ローマ書 3:10] 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。」
“この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。” (伝7:20)
ローマ書の罪論は<1章18節から3章20節>までです。もっと短く見ると<3章18節>までです。義人はいない。一人もいないと言いました。今日の本文は異邦人の罪、ユダヤ人の罪、そして私たちの罪までも含んだ、罪の総合版(そうごうばん)です。
[ローマ書 3:11-12] 11 悟る者はいない。神を求める者はいない。12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
1 愚かな者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。2 主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。3 すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(詩14:1-3)
1 愚かな者は心の中で「神はいない」という。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。2 神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。3 彼はことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(詩53:1-3)
使徒はこれを要約し、罪の構造(こうぞう)が一目でわかるように3つに大別して語りました。第一は思考(しこう)と心について、第二は言葉について、そして第三は行動(こうどう)についてです。
まず第一に、パウロは神様の心を悟ることができず、神様を求めることもしない罪について語りました。これは知的なものであり、意志的(いしてき)な罪です。誰も神様の存在を悟る者がいません。そこにたどり着く方法がありません。なぜなら、「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした」(Ⅰコリ1:21)。そして、彼らは神様を探し求めることすらしません。彼らの考えや心が神様に向けられていません。「神様、私があなたを求めるか求めないかは私の自由です。自分の人生を自分の思うままに生きればよいのではありませんか。なぜ、私が神様を知るべきであり、神様を求めるべきなのでしょうか」。しかし、使徒はそれこそが罪だと言います。「私は自分の人生を生きているだけなのに、どうしてそれが罪なのですか?神様、私を放(はな)っておいてください」。人々がそのように言ったとしても、果(は)たしてそのように生きることが可能なのでしょうか。神様と人間は切(き)っても切れない関係にあります。太陽と向日葵(ひまわり)が切っても切れない関係にあるように、です。私たちの魂はすでに神様を求めています。鹿(しか)が谷川を求めるように、私たちの魂が主を求めています。しかし、私たちは神様を心の中心に置きたがりません。これが罪の根源(こんげん)です。
「また、彼らは神を知ることに価値を認(みと)めなかったので(新改訳第3版:彼らが神を知ろうとしたがらないので、新共同訳:彼らは神を認めようとしなかったので、韓訳:彼らが心に神を留(と)めることを嫌(きら)うので)、神は彼らを無価値な思いに引き渡(わた)されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです」(ロマ1:28)。
神様との接点(せってん)を断(た)ち切ってしまうことが罪の始まりです。パウロは<詩篇14篇>をもって罪について語り始めました。「愚かな者は心の中で『神はいない』という。彼らは腐(くさ)っていて忌(い)まわしいことを行う。善を行う者はいない」(詩14:1)。愚か者は心の中で「神はいない」と言います。アカシアの木は生命力があまりに強いため、適当(てきとう)に種を蒔(ま)いてそのままにしておくとしても、よく育(そだ)つといいます。ですから、地(じ)すべりが発生(はっせい)しやすい山に大量(たいりょう)の種を蒔(ま)いておくと、あっという間に山全体を覆(おお)うようになって、それらが地すべり防止(ぼうし)に役立つのだということです。しかし、この種が落ちてはいけないところに落ちてしまうなら、大変なことになります。木をいくら切ってもまた出てくるため、根(ね)を完全に取り除(のぞ)く必要があります。それと同様(どうよう)に、私たちもまた自らの罪の根源(こんげん)を正確(せいかく)に見て、それを完全に取り除かなければなりません。
[ローマ書 3:12] すべての者が離れて行き、だれもかれも無用(むよう)の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
(韓訳:すべての者は偏(かたよ)っている、新共同訳:皆迷い、新改訳第3版:すべての人が迷い出て)
「偏っている」というのは、まっすぐに立つことができず、傾(かたむ)いていることを意味します。「無用の者となった」とは、腐(くさ)っていることを意味(いみ)します。私たちの心がひどく変質(へんしつ)して、腐臭(ふしゅう)を放(はな)つようになったということです。
[ローマ書 3:13-14] 13 彼らの喉(のど)は開いた墓(はか)。彼らはその舌(した)で欺(あざむ)く。14 彼らの口は、呪(のろ)いと苦(にが)みに満(み)ちている。
(詩5:9) 彼らの口には信実(しんじつ)がなく心にあるのは破壊(はかい)です。彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌でへつらうのです。
(詩140:3) 蛇(へび)のようにその舌を鋭(するど)くし唇(くちびる)の下にはまむしの毒があります。セラ
(詩10:7) 彼の口は呪いと欺(あざむ)きと虐(しいた)げに満(み)ち舌の裏にあるのは害悪(がいあく)と不法(ふほう)です。
人間の心に神様を留(と)めようとしない時に、そこから腐敗(ふはい)が起こります。ユダヤ人は死者(ししゃ)を埋葬(まいそう)する際(さい)、遺体(いたい)を洞窟(どうくつ)に埋(う)め、大きな石で入り口を塞(ふさ)ぎました。その石を取りのけると、中は腐ったもので満ちています。使徒の告発(こくはつ)を考えてみてください。喉は開いた墓だと言いました。罪は心から`生(しょう)じるものです。私たちの心や考えが腐ると、悪質(あくしつ)な言葉や呪いの言葉がそこから生じ始めます。「心」から「喉」へ、「喉」から「舌」へ、そして「口」へと移動(いどう)します。
<ヤコブの手紙3章>を見てみましょう。
2「私たちはみは、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。3 馬を御するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。4 また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。5 同じように、舌も小さな器官ですか、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。6 舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます」(ヤコ3:2-6)。
ヤコブは偉大な使徒です。彼は、天国か地獄かの行(ゆ)き先は私たちの舌にかかっていると言いました。神様が私たちに舌を与えてくださいましたが、それを用(もち)いて人を生(い)かすことも殺(ころ)すこともできます。イザヤは「…口のむち(막대기)で地を打(う)ち、唇(くちびる)の息(いき)で悪(あ)しき者を殺す」(イザヤ11:4b)と言いました。 私たちが唇(くちびる)で神様の御言葉を伝(つた)え、罪を裁かなければなりません。私たちの舌や唇が義の兵器(へいき)となり、救いの道具(どうぐ)とならねばなりません。
[ローマ書 3:15-17] 15 「彼らの足は血を流すのに速く16 彼らの道には破壊(はかい)と悲惨(ひさん)がある。17 彼らは平和の道を知らない。
(イザ59:7-8) 7 その足は悪に走り、咎なき者の血を流すのに速い。その思いは不義の思い。暴行と破滅が彼らの大路(おおじ)にある。8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公正がない。自分の通り道を曲げ、そこを歩むものはだれも平和を知らない。
次は足に行きます。人間の足は罪を犯すのに速く、その罪は瞬(またた)く間(ま)に増(ふ)え広がっていきます。使徒は、このような人間をどのようにして正しいとみなすことができるのかと非難(ひなん)します。神様を求めない心と、偽(いつわ)りの舌と、罪を犯すのに早い足。これらは思いと言葉と行いが全て腐っている、すなわち人間は存在そのものが罪深いということです。その結論は「彼らの道には破壊と悲惨がある(16節)」ということです。地球上(ちきゅうじょう)の生きとし生けるもの全ては、太陽から離れてしまうとその生命力を失って死んでいくように、人間もまた神様を失うと結局は破滅(はめつ)します。神様が私たちの人生を破滅と悲惨の人生に定(さだ)められたわけではありません。自らその道を歩むのです。使徒の勧(すす)めの言葉に耳を傾(かたむ)けましょう。「破滅と悲惨の状況(じょうきょう)の中にいる者たちよ!平和と平安の道を失ってしまった者たちよ!まずは神様に立ち返り、そのみそばに近づくのです!」
[ローマ書 3:18]「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
(詩36:1) 私の心の奥にまで悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には神に対する恐れがない。
(1)罪深い考え、(2)悪質な舌、(3)血を流すのに速い足、これら3つを1つに集約(しゅうやく)すると、不敬虔、つまり高慢の罪です。パウロはそれをこのように表現(ひょうげん)しました。「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。人間は罪に対する裁きを知りません。人間の置(お)かれている現実が、神様のいない人生、神様を無視する人生です。私たちはこのような罪人であることを知っておく必要があります。
[ローマ書 3:19-20] 19 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服(ふく)するためです。20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認(みと)められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
律法の下にいる者たちとは誰でしょうか。「私は選ばれた者であり、律法を預(あず)かった者だ」と自負(じふ)している人々を意味します。しかし、予(あらかじ)め使徒は彼らが受け取った律法が彼らの罪でさえも例外(れいがい)とするものではないと断言(だんげん)しました。パウロはむしろ律法が罪を悟らせるものだと言います。ユダヤ人は自らが選ばれた者たちであり、律法を持っていることのゆえに裁かれることはないと考えました。使徒はそのようなユダヤ人の心をとてもよく知っていました。しかし、600以上の律法をすべて守り行うことなど出来ないのではありませんか?律法は私たちに罪を悟らせ、罪を抑制(よくせい)することはできますが、それだけでは私たちが完全に救いに至(いた)ることは出来ません。むしろ、すべての口がふさがれると言いました。霊的に見ると、律法の下にいる人間の姿は重荷(おもに)を背負った者と同じです。律法を知れば知るほど私たちは罪を悟るようになります。そのため、自分が罪人であり、神様の裁きを受けるしかないという重い現実の前に、私たちは言葉を失うのです。Ω