2023年07月19日
“決してそんなことはありません”
*日時: 2023年 7月16日, 主日礼拝
*場所: 福岡アガぺ長老教会
*說敎: ジャンサムエル 牧師
*本文: ローマ書 3章5-9節
[ローマ書 3:5-8] では、もし私たちの不義(ふぎ)が神の義を明(あき)らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下(くだ)す神は不義なのでしょうか。6 決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。7 では、もし私の偽(いつわ)りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人(ざいにん)としてさばかれるのですか。8 「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷(ちゅうしょう)されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。
使徒は今、より深い問いを提起(ていき)しています。<ローマ書3章5節と8節>はつながっています。「私たちの不義が神の義を示(しめ)すのに役立(やくだ)つのだとしたら、善をもたらすために悪を行うべきなのか?」このように誤解してはいけません。使徒は「決してそんなことはない」と言います。人々がこのようなナンセンスな問いを投(な)げかけて来る時は、私たち神様の御言葉を託(たく)された者たちは、「決してそうではない!」と答えるべきです。ですから、神様を誤解して憎(にく)んだ人は悔い改めるべきです。彼らのその心が引き裂(さ)かれ、心において悔い改めが起こらなけばなりません。
いくつかの例(れい)を見てみましょう。私たちが創世記を学ぶ際、神様が私たち人間を創造し、私たちに善悪の木から食べないようにという戒(いまし)めをお与(あた)えになったことを知るようになります。そこで人々はこう尋ねるかもしれません。「なぜ神様は、人間が食べることができない場所にその木を置かなかったのですか」と。さらに、非難混(ま)じりに言うかもしれません。「神様は取って食べることができないようにアダムを創造できなかったのですか?それは神様に非(ひ)があることになりませんか?」そのようにして、全責任(ぜんせきにん)を神様に負(お)わせようとするのです。そこから、神様に対する全ての誤解と憎(にく)しみが生(しょう)じます。人間の邪悪さは、罪を神様になすりつけるところにあります。<創世記3章>のアダムの姿がそうでした。自分が堕落しておきながら、神様がお与えになった女性のせいだと言って責任を転嫁(てんか)しました。私たちはそのアダムの子孫(しそん)です。私たちはまた、自分の罪を神様に負(お)わせ、全てが神様の責任であると言います。
使徒ヨハネはこれを知っていて、「もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません」(1ヨハネ1:10)と言いました。これがどれほど深い言葉でしょうか。人間はすべて罪人です。
この問いに次のように答えた人々がいます。「人間の堕落は神様のご計画の一つなのだ」と。なぜそのように答えたのでしょうか。神様の全知全能性を保持(ほじ)するためには、神様が全てを既(すで)に知っておられ、神様のご計画によって全てが成(な)し遂(と)げられるべきだからです。そうして、彼らは次のように言い訳をしなければなりませんでした。「神様が人間を堕落させた理由は、そこから救い出された時に、人間がよりいっそう神様の恵みに感謝するからです」。本当にそうでしょうか。人間の堕落は、神様の恵みをより明確(めいかく)にするための手段(しゅだん)だったというのでしょうか。<5節と8節>は全(まった)く同じ内容を語っています。「神の義を明(あき)らかにするために不義を行う。善をもたらすために悪を行う」。このような答えを聞くなら、神様への憎しみが私たちの中に生じるのではありませんか?反神論や「殺(さつ)神(かみ)」の感情が生まれてしまいます。ある有名なキリスト教書籍(しょせき)でも、「非常に多くの人々がこれほど長い間苦(くる)しんでいるという事実が、神の予定でなくて何であろう」と主張しているのです。聖書とは全く違うことを話しています。パウロの主張とも大きな隔(へだ)たりがあり、神様を誤解させる教説になっています。「堕落は予定であるという」その土台(どだい)の上に論(ろん)じられるあらゆる教えは結局空(むな)しいものです。そこに付加(ふか)されるいかなる説明も所詮(しょせん)は見苦(みぐる)しい言い訳(わけ)でしかありません。詩編の記者は言いました。「この私は恐れうろたえて言いました。『人はだれでも偽りを言う』と」(詩篇116:11)。それらの言い訳は全てナンセンスであり、偽りなのです。
愛の深い世界を知っている人だけが、この問いに答えることができます。愛による創造、その愛の関係が破壊(はかい)されたという事実(じじつ)、そしてキリストによって回復された愛の世界を理解する時にのみ説明することができます。イエス・キリストについて正しく説明することによってのみ、神様に対する誤解が解(と)かれ、憎しみが消え去(さ)ります。私たちはこのように答えます。「神様と人間との関係は愛の関係でなければなりません。愛が完全なものとなるために、神様は私たちに自由(じゆう)意志(いし)を与えてくださいました。そして、私たちが自らその神様の愛に応答(おうとう)しなければなりません。そこに少しでも強制力(きょうせいりょく)が働(はたら)くなら、真実の愛とは言えません。愛は自由意志が前提(ぜんてい)とされていなければなりません。ですから、神様は人が善悪の知識の木から取って食べることを防(ふせ)ぐことがおできにならなかったのです。人間は外部からのいかなる働きかけにもよらず、自らの意志で神様を愛し、従うべきだったのです。私たちはこの神様の愛を知らねばなりません。ここで私たちが間違ってしまうと、誤解が生じ、あらゆる問題の温床(おんしょう)となってしまいます。全ての罪はここから始まります。ある心理学の最高権威(けんい)者(しゃ)(フリードリヒ・ニーチェ)は、人間の深層(しんそう)心理(しんり)を分析(ぶんせき)した上で、「人間の中に神様を殺す動機(どうき)がある」と結論付(づ)けました。人間の中に神様を殺したいという思いがあるというのです。無神論(むしんろん)よりも恐ろしいのは、神様を憎(にく)む反神論です。それは全て神様に対する誤解から来ています。
また別の例を見てみましょう。ある人々は次のように抗議します。「十字架の出来事はユダの裏切(うらぎ)りがなければ起こらなかったのではないですか。だとすれば、彼は神様の摂理(せつり)に多大(ただい)な貢献(こうけん)をした人物だということになりはしませんか。ユダがいなければ、神様の偉大(いだい)な歴史は引き起こされませんでした。彼の裏切りは必要(ひつよう)悪(あく)だったということですか?」このような質問に私たちはどう答えるべきでしょうか。「決してそんなことはありません!」と言わねばなりません。これは、ユダヤ人と異邦人からキリスト教に投(な)げかけられる重要な挑戦でした。「御子キリストを殺すことが神様の計画であった」と聞かされる時、多くの人々はそのような神に嫌悪感(けんおかん)を抱(だ)きます。
それに対しても、私たちは「決してそんなことはありません!」と答えます。ユダの裏切りは神様のご計画ではありません。ユダがイエス様を売りわたすことが、最初から決定(けってい)されていたわけではありません。福音書にあるように、イエス様は誰よりもユダを愛しておられたからこそ、彼を12人の弟子の一人として立てられました。また、ユダを最(もっと)も信頼していたからこそ、主はユダにお金の管理を任せたのです。イエス様が次のように考えておられたとでもいうのでしょうか。「ユダよ。あなたはお金によって躓(つまづ)き、私を売り渡すことになっている。だから、あなたにお金の管理を任せたのだ」。決してそんなことはありません!<ヨハネの福音書13章>の最後の晩餐(ばんさん)において、ユダに対するイエス様の愛を見ることができます。それは、最後の瞬間までユダに悔い改めの機会を与え、何としてでも彼から裏切りの心を取り除(のぞ)き、彼を立ち返(かえ)らせようとなさった場面でした。<13章の最初>には、「世にいるご自分の者たちを愛していたイエスは、彼らを最後まで愛された」と書かれています。ユダがその「最後」だったのです。彼が主の愛を退(しりぞ)け、深い暗闇(くらやみ)の世界へと離れ去(さ)った時も、主は彼を非難なさることなく、彼の罪さえも全て背負って十字架の道を歩まれたのです。
アダムの堕落も、ユダの裏切りも、全ては人間が一方的に神様から離れたことであり、決して神様のご計画だったのではありません。イザヤ書で神様は次のようにおっしゃいました。「わたしがあなたがたの母を追(お)い出したという離縁状(りえんじょう)はどこにあるのか。わたしがあなたがたを売ったという、わたしの債権者(さいけんしゃ)とはだれなのか。見よ。あなたがたは自分たちの咎(とが)のために売られ、自分たちの背(そむ)きのために、母は追い出されたのだ」(イザヤ50:1)。神様が人間を捨てたわけではありません。自らの罪のゆえに人間が神様を捨てたのです。
イスラエルの歴史においてサウルの話があります。サウルは王位(おうい)から退(しりぞ)けられました。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。多くの人がこの出来事を、神様がサウルを退(しりぞ)けた場面として見ます。しかし、神様がサウルを退(しりぞ)けたわけではありません。預言者サムエルの言葉を見てください。「サムエルはサウルに言った。『私はあなたと一緒に帰りません。あなたは主の言葉を退(しりぞ)け、主があなたをイスラエルの王位から退(しりぞ)けられたからです」(Ⅰサム15:26)。サウルが先に神様の言葉を退け、それによって王としての資格(しかく)を失ったのです。神様の御前において最も忠実(ちゅうじつ)であるべき王の立場にあった者が、神様に背(そむ)き、忠実な姿を失ったのです。「サムエルは言った。『主は、全焼(ぜんしょう)のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜(よろこ)ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾(かたむ)けることは、雄(おす)羊(ひつじ)の脂肪(しぼう)にまさる」(Ⅰサム15:22)。神様に良いいけにえをささげようとしたという王の言い訳の前で、預言者サムエルは神様が従順(じゅうじゅん)を望んでおられることを明確に指摘しました。王が先に主の御言葉を退(しりぞ)けたのです。問題はいつでも人間が先に神様を退けるというところにあります。
パウロの中にはイスラエルが見捨(みす)てられたという思いがありました。パウロは、なぜ彼らが見捨てられるしかなかったのかを言いたかったのです。イスラエルは、本来であればキリストを受け入れ、福音を受け入れるべき民族であり、神の御国のために、世界宣教の使命を全(まっと)うする責務を担(にな)っていたのです。では、なぜ彼らは見捨てられたのでしょうか。神様が先に彼らを捨てたのでしょうか。決してそうではありません!それが神様のご計画だったのでしょうか。決してそうではありません!パウロが言おうとしていたのは、「あなたがたが主を受け入れ、神様の福音を全地(ぜんち)に宣べ伝えるべき者たちであった。しかし、キリストを拒絶(きょぜつ)したことによって、あなたがたは自らの使命を失ったのだ」。これを知らなければ、彼らの抗議(こうぎ)に対するパウロの答えを理解することはできません。
悪が神様の計画ではなかったことを明確に示(しめ)す別の例があります。創世記のヨセフの物語を見てください。ヨセフは兄弟たちの憎しみのゆえに売り渡されました。実の弟(おとうと)を売るというのが、どれほど醜悪(しゅうあく)な姿でしょうか。兄弟たちはヨセフを殺そうと、穴(あな)に投(な)げ入れました。そして、しばらくして彼を引き上げてやりました。しかし、それはヨセフを奴隷(どれい)商人(しょうにん)に売るために他(ほか)なりませんでした。穴から引き上げてくれる兄弟たちを見ながら、ヨセフは何を思ったでしょうか。「兄さん達はふざけていただけなんだ」。穴から出てきたヨセフはおそらく安堵(あんど)の涙を流(なが)し、兄弟に抱きしめてもらおうとしたことでしょう。しかし、彼らは無残にもヨセフを銀貨20枚と引き換えに売り渡してしまったのです。奴隷商人に連(つ)れていかれるヨセフの姿を、いい気味(きみ)だと言わんばかりに眺(なが)めていた兄弟たちの姿が、どれほど邪悪(じゃあく)で醜(みにく)いものでしょうか。しかし、神様はヨセフを抱き、慰(なぐさ)め、夢を解釈(かいしゃく)する知恵を授(さず)けることで、彼を繁栄(はんえい)の道へと導かれたのです。父ヤコブが亡(な)くなった時、ヨセフの兄弟たちは彼の報復(ほうふく)を心から恐れました。
しかし、ヨセフは次のように言いました。「あなたがたは私に悪を謀(たばか)りましたが、神はそれを、良いことのために計(はか)らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生(い)かされるためだったのです」(創世記50:20)。このヨセフの言葉から私たちは明確な答えを得ることができます。兄弟たちがヨセフを憎(にく)んだことは確(たし)かに悪でした。それは神様の計画ではありませんでした。しかし、偉大(いだい)なことは、神様がその悪を善に変えてくださったということです。どうしてこれを見て、悪は神様の計画であると言って神様にその責任をなすりつけることができるでしょうか。決してできません。そのような教理があるとすれば、神様はどれほど悔(くや)しい思いをされていることでしょうか。
福音はギリシャ哲学に洗礼(せんれい)を授けるべきでしたが、かえってギリシャ哲学から洗礼を受けることで深刻な変質を招(まね)きました。それにより、キリスト教が全知全能の神だけにフォーカスを当(あ)てるようになりました。彼らは、愛ゆえに無力(むりょく)になるしかない神様の深い悲しみを知りません。これがどれほど悲しい話でしょうか。
今、パウロは彼の教えを誤解し中傷(ちゅうしょう)した人々に答えています。中傷者(ちゅうしょうしゃ)たちはパウロが次のように教えていたと言って非難(ひなん)しました。すなわち、「善をもたらすために悪を行おう。神の義を明(あき)らかにするために私たちが不義を行おう」と。パウロの返答は 「そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です」(ローマ3:8)というものでした。そのように言う者たちはさばきを受けると使徒は怒りをもって話しています。神様は悪を通して善を成(な)し遂(と)げるお方ではありません。神様は悪を計画するお方ではありません。決してそんなことはありません。私たちはパウロの中にある憤(いきどお)りを正しく理解することで、福音に対する正しい理解を持つ必要があります。さらに、誤解することによって的(まと)はずれな質問をする人々や、神様に対して不当(ふとう)な怒りや憎しみの思いを抱(かか)えている全ての人々に、愛をもって適切(てきせつ)に答えることができなければなりません。
[ローマ書 3:9] では、どうなのでしょう。私たちに優(すぐ)れているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
ここでの「私たち」とは誰でしょうか。まずは異邦人について、次はユダヤ人について、そして最後にローマにいる信徒たちについてです。広(ひろ)く言えば、全ての信者を指(さ)しています。私たちは優(すぐ)れているのか。決してそんなことはないということです。パウロは全ての人間が罪の下にあると宣言しました。Ω