2023年07月11日
“たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです”
*日時: 2023年 7月9日, 主日礼拝
*場所: 福岡アガぺ長老教会
*說敎: ジャンサムエル 牧師
*本文: ローマ書 3章1-4節
[ローマ書 3:1] それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼(かつれい)に何の益(えき)があるのですか。
今ユダヤ人たちが尋(たず)ねて来ます。「ユダヤ人の優(すぐ)れた点とは何であり、割礼の益(えき)とは何か?」なぜ神様は割礼を受けるようにと仰ったのか、ということです。洗礼を受けた者が神の民にふさわしい生き方をしていないのであれば、洗礼は無効(むこう)だと言ったとしましょう。「洗礼を受けることは重要ではない」。このような革命(かくめい)的な言葉が皆さんに聞こえて来たならば、皆さんは何と言うでしょうか?ある人は洗礼に何の益もないなら、なぜ受けろと言ったのかと問(と)い詰(つ)めるでしょう。パウロはユダヤ人の心の中にある考えを何もかも知っていました。彼はこう答えました。「割礼は無駄(むだ)なものではない」と。割礼はどれほど有益(ゆうえき)で価値(かち)あるものでしょうか。
[ローマ書 3:2] あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委(ゆだ)ねられました。
パウロは今、ユダヤ人の優(すぐ)れている点が何であるのかを説明しています。この言葉はクリスチャンにも当てはまります。使徒はまた、<第9章>、<第10章>、および<第11章>でユダヤ人の優(すぐ)れている点を説明しました。 「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼(かつれい)に何の益(えき)があるのですか。」 ユダヤ人にそう問(と)われた時、パウロは次のように答えました。第一に、神様の言葉を託(たく)されたことです。そして、<ローマ書9章>において更(さら)に多くを挙(あ)げました。「彼らはイスラエル人です。子(こ)とされることも、栄光も、契約(けいやく)も、律法の授与(じゅよ)も、礼拝も、約束も彼らのものです」(ローマ 9:4)。彼らには「子とされること」がありました。イスラエルは長子(ちょうし)の国です。「そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト記 4:22)。<出エジプト記40章>にあるように、イスラエル人は神の栄光を見た民族です。 「そのとき、雲が会見(かいけん)の天幕(てんまく)をおおい、主の栄光が幕屋(まくや)に満ちた」(出エジプト記 40:34)/「旅路(たびじ)にある間(あいだ)、イスラエルの全家(ぜんいえ)の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった」(出エジプト記 40:38)。また、彼らには祝福の「約束」があります。神様は彼らと「契約(けいやく)」を結(むす)ばれました。「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる」(創世記 15:5)/「モーセはその血を取って、民に振(ふ)りかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに基(もと)づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト記 24:8)。<出エジプト記20章から23章>では、神様がイスラエルの民に「律法」を授(さず)けられました。彼らには、子とされること、栄光、契約、律法、礼拝、そして約束がありました。そして、他に何が重要でしょうか。「父祖(ふそ)たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン」(ローマ 9:5)。イスラエルの民はキリストと同じ血統(けっとう)にあります。ですから、彼らが尊い民であることを誰が否定(ひてい)することができるでしょうか。
イスラエルの民の優(すぐ)れている点は、まず彼らが神様の言葉を委(ゆだ)ねられたことだと言いました。ユダヤ人は神様の言葉を絶対(ぜったい)視(し)し、そこから一点(いちてん)一画(いっかく)も加(くわ)えたり引(ひ)いたりしませんでした。しかし、彼らは一線(いっせん)を超(こ)えてしまい、神様の御言葉の本質(ほんしつ)を失うようになりました。しかし、それでも彼らは神様の御言葉を厳格(げんかく)に守ってきました。その意味で、全てのクリスチャンはユダヤ人に借(か)りを負(お)っていると言えるでしょう。
[ローマ書 3:3] では、どうですか。彼らのうちに不真実(ふしんじつ)な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。
これは神義論に関する問いと答えです。神(しん)義論(ぎろん)(Theodicy)とは、神の主権と摂理(せつり)を説明するものです。その代表的な例(れい)として、「悪の起源(きげん)は何なのか」「なぜ神は邪悪な者を滅(ほろ)ぼさないのか」「なぜ神は罪悪に満ちた人類の歴史を長い間放置(ほうち)するのか」といったものがあります。神義論は、こういった類の問いに答えようとする試(こころ)みです。
3節の問いには、全ての誤解と反抗(はんこう)が含(ふく)まれています。ある人々は皮肉(ひにく)を込めて次のように言います。「ああ、それなら、ユダヤ人との神様の契約は、彼らの不信仰によって破棄されたということですか?神様の真実さは無効になったのですか?その計画も全て失敗に終わったということでしょうか?神様は失敗者であるということですか?」パウロはこれらの人々に「決してそんなことはない!」と答えました。そして、憤慨(ふんがい)の思いで尋ねるのです。「あなたがたは神様の言葉を委(ゆだ)ねられた者たちではないか。どうして分からないのか。あなたがたが神様の言葉と愛を知っているなら、どうしてそのように言うことができるのか」と。
[ローマ書 3:4] 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽(いつわ)り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「決してそんなことはありません!」これが使徒の答えです。神様は真実なお方であり、信頼するに足(た)るお方です。何物も神様の真実(しんじつ)さを無効(むこう)にすることはできません。<詩篇51篇4節>を用(もち)いて、パウロは、人間が罪のゆえに神様から離れたとしても、神様は常(つね)に正しいお方であると言いました。これはダビデの詩から引用(いんよう)されたものです。彼が重大(じゅうだい)な罪を犯した後、悔い改めて書いたものです。「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですから、あなたが宣告するとき、あなたは正しくさばくとき、あなたは清くあられます」(詩篇51:4) 。それは真実です。神様だけが正しい裁(さい)判官(ばんかん)であり、私たちを裁くことができる唯一のお方です。そのお方の御前において、私たちに弁解の余地はありません。「主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々(だいだい)に至(いた)る。(詩篇100:5)。 神様は善であられ、そのいつくしみは永遠で、その真実さにおいて不変(ふへん)のお方です。
「さばくとき、勝利を得られます」と言いました。これはどのような裁きでしょうか。イザヤ書を見てみましょう。「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──」(イザヤ1:18)。 神様が論じ合おうと仰いました。それは法廷(ほうてい)での議論のようなものです。双方(そうほう)が自らの正しさを主張(しゅちょう)します。罪を犯した人間が、むしろ神様の御前において自分の正しさを主張することが何と多いことでしょうか。しかし、人間は神様との議論に勝つことはできません。神様の裁きは常に正しいのです!