2023年06月05日
*日時:2023年6月4日、主日禮拜
*場所:福岡アガペ長老教会
*說敎:張サムエル 牧師
*本文:ローマ書 1章25-32節
† [ローマ書 1:25-26] それは、彼らが神の真理を偽(いつわ)りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝(おが)み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡(わた)されました。すなわち、女は自然の用(よう)を不自然なものに代え、
パウロは<25節>で、偶像(ぐうぞう)崇拝(すうはい)の罪に対して繰(く)り返し指摘(してき)しています。 パウロは<26節>で再び神様が 「引き渡された」のだと言います。言い換えるなら「遺棄(いき)」です。選択と遺棄の問題は、信仰において極(きわ)めて重要な問題です。まず、パウロは本文で遺棄があるということを明確(めいかく)に述(の)べています。なぜ遺棄が起こるのでしょうか。それは、人間が悔(く)い改(あらた)めないからです。悔い改めとは、自分がそれまで歩んできた人生の方向(ほうこう)を転換(てんかん)することです。もし、人が最後まで立ち返(かえ)ろうとしないなら、神様はなす術(じゅつ)なく、御顔を背(そむ)けられるという事です。これをパウロは、「引き渡(わた)され」と表現しました。
[ローマ書 1:27] 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤(あやま)りに対する当然の報(むく)いを自分の身に受けているのです。
これがローマにいる異邦人の罪の現実(げんじつ)でした。罪はやがては人間性を喪失(そうしつ)させ、倫理的な崩壊(ほうかい)をもたらします。神様を失ってしまった人間は、魂に虚(むな)しさを感じるようになっています。それゆえ、その心の空席(くうせき)を他のものによって満たそうとします。最悪の場合(ばあい)、そこが汚(よご)れた欲望(よくぼう)で満たされてしまうのです。そうして結局は欲望の奴隷になります。神様がいなくても、美しく高尚(こうしょう)な人生を生きることができると考えるかもしれませんが、それは錯覚(さっかく)にすぎません。パウロは、神様を離れた者たちは姦淫(かんいん)を行い、同性愛(どうせいあい)に陥(おちい)ると言っています。ユダの手紙(ユダ1:6-7)やローマ書といった聖書の複数(ふくすう)の箇所(かしょ)で同様のことが語られています。人間の中心から神様が失われてしまう時、深刻(しんこく)な無秩序(むちつじょ)に陥ってしまいます。善悪(ぜんあく)の判断基準を全て失ってしまい、それによって甚(はなは)だしい混乱(こんらん)が生(しょう)じ、欲望の赴(おもむ)くままに突(つ)き進んでゆき、腐敗(ふはい)の極(きわ)みに達するのです。
同性愛は深刻な罪です。それは男性と女性の性を逆にすることです。人間には生まれながらに男性がいて、女性がいます。神様が創造なさった男女(だんじょ)固有(こゆう)の性を人為的(じんいてき)に変えてしまうことがいかに順(じゅん)理(り)に反する、不自然なことであり、大きな罪になるでしょうか。聖書は悪がその極(きわ)みに達すると、人が人に対して不自然な行動(こうどう)を取るようになるのだと語っています。女性と女性が、もしくは男性と男性が不自然な関係を持つようになるということです。人間は神様を捨てる時に欲望の奴隷となり、性的堕落が津波(つなみ)のように押(お)し寄(よ)せて来て、性的な奴隷に転落してしまいます。ローマの歴史家によると、ローマで最も深刻に蔓延した病が性病であったといいます。堕落した人間は、なぜ性的堕落に陥(おちい)ることになるのでしょうか。神様の美しいアガペーの愛、すなわち霊的な愛を知らない者は、エロスの愛、すなわち肉体的な愛だけを追(お)い求めるようになるからです。そうして結局は性的堕落に陥るようになるのです。男性と女性が結婚して家庭を作る事が神様の御心であり、創造の秩序(ちつじょ)です。しかし、その秩序が破壊(はかい)されてしまう時、深刻な性的堕落が起こるのです。神様を知る知識のない所(ところ)では、このような総体的な混沌(こんとん)(カオス)と混乱を避(さ)けることはできません。ところが、パウロの憤(いきどお)りは当時のローマにだけ向けられているのではありません。というのも、これがまさに現代の私たちの姿でもあるからです。
[ローマ書 1:28] また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
<28節>において、パウロは異邦人の中にある非常に深刻な罪を指摘しています。それは神様を心に置こうとしないことです。これがすべての罪の原因(げんいん)であり、根源(こんげん)です。しかし、人間は自らの内に、神様を心に置くことを嫌(いや)がる心と、神様を探し求める心との熾烈(しれつ)な葛藤(かっとう)を有(ゆう)しています。それゆえ、不敬虔(ふけいけん)は高慢であるだけでなく、自分自身を欺(あざむ)く欺瞞(ぎまん)(不正直(ふしょうじき))だという事が出来ます。神様を心に置くことを嫌(きら)う人間を、神様は放(ほう)っておくことしかできません。そうして命の根源(こんげん)である神様から遠(とお)ざかった人間は結局は干(ひ)からびてしまい、朽(く)ち果てるようになります。
[ローマ書 1:29-31] 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意(あくい)とに満ちた者、ねたみと殺意(さつい)と争(あらそ)いと欺(あざむ)きと悪(わる)だくみとでいっぱいになった者、陰口(かげぐち)を言う者、30 そしる者、神を憎(にく)む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語(たいげんそうご)する者、悪事(あくじ)をたくらむ者、親(おや)に逆(さか)らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛(じあい)のない者です。
パウロは不敬虔によって生(しょう)じる21個もの罪のリストを挙(あ)げています。それによって、神様のいない世界において、いかなる罪が蔓延(はびこ)るかをはっきりと示(しめ)したのです。ローマ書の他にも、次の箇所(かしょ)に罪のリストが記録されています。
<マルコの福音書 7:21-22> / <ローマ書 1:29-31> / <ローマ書 13:13> / <第一コリント 5:10-11,6:9-10> / <第二コリント 12:20-21> / <ガラテヤ人への手紙5:19-21> / <エペソ人への手紙 4:31, 5:3-4> / <コロサイ人への手紙 3:5> / <第一テモテへの手紙 1:9-10> / <第二テモテの手紙 3:2-5> / <出エジプト記21:12-27, 22:19> / <レビ記 19:11-20:27> / <申命記 27:15-26> / <ホセア 4章>
私たちがこれらの御言葉に常(つね)に注意を払い、御言葉に照(て)らして自分自身の内側(うちがわ)にある罪を見なければなりません。イエス様も、暗闇(くらやみ)が光に勝つことはないと言われました(ヨハネ 8:12)。私たちは、真理の御言葉を知り、御言葉の中に留(と)まる人にならなければなりません。そうする時に、暗闇が私たちを打ち負(ま)かすことはできなくなるのです。
[ローマ書 1:32] 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪(しざい)に当(あ)たるという神の定(さだ)めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意(どうい)しているのです。
パウロは、罪人である人間に対して、最終的(さいしゅうてき)には「死刑(しけい)宣告(せんこく)」が下されると語っています。罪から来る報酬(ほうしゅう)は死です(ローマ6:23)。「死(Death)」という単語を、私たちは重く受け止めなければなりません。一度死ぬことは定(さだ)まっています。そしてその次に裁(さば)きを受けるのです。「一度死ぬことと死後(しご)にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル9:27)。罪を犯し続ける者を待ち受けているのは、最後の審判(しんぱん)台(だい)における神の死刑宣告なのです。「喪中(もちゅう)の家に行くほうがよい。 そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(伝道者の書 7:2)。人間は誰も死を避(さ)けて通(とお)ることができません。死はただの死で終わるのではなく、その行き着(つ)くところは永遠の地獄なのです。20世紀(せいき)を代表するスイスの改革(かいかく)主義(しゅぎ)神学者であるカール・バルトの著書(ちょしょ)の一つにローマ書講(こう)解(かい)があります。その1章の序論(じょろん)のタイトルが「Darkness(暗闇)」でした。世が神様を知ろうとしないがゆえに暗闇の世界になったという事です。私なら、「永遠の罰(Eternal punishment)」、もしくは「永遠なる死(Eternal death)」とタイトルを付けるでしょう。私たちの人生は、地獄行きの列車に乗って、暗鬱(あんうつ)で、闇に包(つつ)まれた世界に向かっているのです。これが避(さ)けることのできない罪人の運命でしたが、神様は罪深い私たちのために道をお与えになりました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅(ほろ)びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)
神様がこの世を愛されたがゆえに、永遠の死に定(さだ)められていた私たちのために、ひとり子をお与えになったのです。神様がその御子を通して、ご自身を知るための道と真理と命を私たちに示(しめ)してくださいました。これがまさに救いです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました(ヨハネ11:25)。これは死んだ命が生きることを意味します。「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:26)と言われました。これは、私たちに永遠の命が約束され、保証されていることを意味します。ですから、私たちには他の道はありません。ただイエスだけが必要なのです。Ω